第百七十五話 地固まる前の雨 5
早苗の愛情は重い。
それなのに、早苗は相手に全ての心を与えてしまう。
一人だけなら、そこに愛情全てを注いで満足できる。
二人以上になると、絶えず心が揺れ動いてしまい、早苗の心身が摩耗してしまう。
特に、同性の相手との付き合いが下手だ。
佳乃にしろ、珠代にしろ、母親という役割を持っている女に弱い。
そのくせ、豊子には同じ子ども同士のように張り合う。
関係性を母親と姉妹以外に置き換えることができない。
本来なら血の繋がりなど、変えようのない事実で補完する関係性を早苗は信じることができない。
それなのに、母親や姉妹を求めている。
ざああっと急に雨足が強くなった。
久間木は空から降り続ける雨を自室の窓から眺める。
思わず、ため息が出た。
早苗に、珠代と豊子を与え続けたら、きっといつかは狂ってしまうと、久間木は冬の頃に気が付き始めた。
女たちの一生は、簡単なことで変わってしまう。
夫の稔のように、常に隣には居られない。
通常ならば、年月が空いてしまったとしても、女たちは再会するたびに付き合いを思い出したように始め、また用事ができては足が遠ざかっていく。
その繰り返しだ。
その簡単なことが早苗には出来ない。
近くにいては、心を動かされて不安定になり、離れていけば終わりになる。
ヤミ市で佳乃から離れた時、早苗は佳乃を捨てて稔を選んだ。
二度と会う事は無いと、思っていた。
それが再会した。
久間木の手によって。
早苗の反応を楽しむ為だけのために、企てた。
そして早苗は佳乃との付き合いを再開させた。
稔が何度も早苗を送り出したせいもあるが、早苗自身が豊子と珠代の関わりに動揺していたせいもある。
それも、佳乃の再婚の可能性が出て、行けなくなってしまった。
母親に男ができる。
それは、別れの前兆だ。
早苗は捨てられることを忘れていない。
早苗の母親と、佳乃は違う女なのに。
早苗はただただ怖がった。
捨てられてしまう。
失ってしまう。
置いていかれてしまうと。
稲川に取られた豊子は、遠くに行ってしまうから、もう会うこともない。
会えなくても仕方がないと思えたのだろう。
珠代は本当の娘の元に帰った。
取られたように思えたが、娘の元に戻る母親に、嫌悪感はなかった。
むしろ、羨ましいと思ったのだろう。
全ては久間木の考察から出た結論だった。
早苗自身が気がついているとは思えない。
久間木も早苗に感化された結果、尋常ではない調査を早苗と稔におこなっている。
執着心が伝染したのか、元来の久間木がようやく露わになったのか。
どちらにしても、早苗と稔がいなければ、久間木の中の変化は起こらなかった。
その変化を久間木は珍しいものを見る気持ちで見ていたが、これはこれでいいものだと思うようになった。
老い先短い身で、これからの余生で息子や嫁、孫に対してどれほどの執着心を出すことができるのか。
未知の可能性を見つけて、楽しいものだと思えるようになった。
これもすべて早苗が与えてくれたものだった。
それならば、早苗をこのまま手元に置いておきたいと久間木が思っても何の不思議もなかった。
久間木の中では、そういう答えがようやく出ていた。
それなのに。
稔を早苗の元に閉じ込めて、絶対の愛人を保証できるようにしたはずなのに。
早苗が、書生と心中した久間木の母親と重なって見えてしまう。
年寄りの勘違いであればいいと思いながら、久間木の頭の中に発生してしまった違和感は、実現することが時々あると経験則から知っていた。
早苗が死のうとしている。
稔を手に入れたのに。
久間木はうろうろと、自室の畳の上を歩き回った。
滝のように降り続ける雨の音がうるさい。
今夜は特に雨が強いらしい。
ラジオから流れる天気予報が、戦時中ではないと教えてくる。
ばたばたと雨垂れが庭の石を打ち続けている。
明日の午後には、珠代は来るだろう。
あと一日。
あと一日を久間木が見張ればいい。
しかし、この雨では畑に行くこともできない。
風呂を使うようすすめても、稔の足元の不安定さを出されれば、強いて呼ぶわけにもいかない。
久間木の勘は、観察と情報と分析で出来ている。
頭の片隅に残る嫌な考えは、時間と共に諦めと一緒に固まっていく。
だが、まだ諦めるほどの状況ではないと久間木は考えていた。
ただの年寄りの勘違い。
それで済めばいいだけなのだ。
小柄な早苗の細腕では、稔を殺すことはできない。
稔を置いて早苗が死ねとも思えない。
久間木は日暮れ前にも関わらず、厚い雲に覆われた真っ暗になった空を見上げて舌打ちを鳴らした。
その舌打ちの音も、すぐに雨にかき消された。
一瞬の稲光り。
数秒後の落雷。
久間木は忌々しげに空を睨んだ。




