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第百七十四話 地固まる前の雨 4

 豊子は火鉢の横で、じっと身を固くして考え込んでいた。

 稔の失明と、久間木からの丁寧すぎる手紙。

 嫌な予感がした。

 兄と義理の姉を亡くした時に、遠くに追いやって知らないフリをし続けていた時と同じようなざわつきを感じていた。


 梅雨時で、僅かな晴れ間には田畑の草取りと手入れをしなければならない。

 それに毎日の食事の用意と洗濯も。

 豊子が早苗たちのところへ行くのは早くて冬だろうと思っていた。

 けれど。

 手紙で久間木が費用は全て持つから来て欲しいとまで書いていた。


 豊子は自分のしなければならないことと、金の工面を考えていたが、亡くなった兄夫婦へ抱いていた後悔の苦い味を思い出すと、ゆっくりと火鉢の横で立ち上がった。


 豊子の貯金が幾らかある。

 家のことは、義理の息子の清正(きよまさ)と子どもたちの母親である義理の姉に頼もう。

 豊子が寝込んでしまえば、状況は同じになる。

 それに、豊子たちが来る前までなんとかやっていたのだ。



 ーーーもう、後悔はしたくない。


 兄夫婦と会う事はもうできないけれど、早苗たちは生きているのだ。


 豊子は手紙を胸に当てながら座敷を出ると、時刻表を探し始めた。




 久間木は、珠代に電報を送った。


『スグニ キテクレ』


 常にない乱雑な連絡の言葉で、珠代は事態の急さを理解するだろう。

 それに、妙な人間に見つかったとしても、差し出し人が久間木の電報を見せれば絡まれることもないはずだ。


 久間木は嫌な感覚を拭い去ることが出来ずにいた。


 母親が書生と心中する前に見せた美しさを雨戸を開けた日の早苗から感じていた。


 気のせいかもしれない。


 久間木に絵を売りたいと早苗が言った時に、少しの安堵と共にその先の保証が欲しくて適正な値段になるまで、と。

 ()()()()()()()()()()

 生真面目な早苗ならば、久間木の申し出を無下にすることもないはずだと久間木は考えたのだった。

 だが、それも何の意味もないかもしれない。

 頭を下げる早苗を見て、久間木は泣きそうな思いに囚われた。


 毎日顔を見に行った。


 拍子抜けするほど、二人はあっさりと日常に戻っていた。

 目の見えない稔の世話を甲斐甲斐しく焼いている早苗。その早苗に己の身を委ねて、安らいだ顔をしている稔。



 美しかった。



 あまりにも仲睦まじい二人は、現世の男女とは思えないほどだった。

 まるで、絵巻物の中の男女のように、触れても温もりがないように思えた。


 隠居になった久間木の勘違いであればいい。

 人の良さそうな豊子には、長々と丁寧に手紙を書いた。

 その手紙が届く頃を見計らって、珠代に電報を打った。

 同じ頃に、久間木の所に豊子と珠代が来る筈だ。


 稔の失明。

 それだけで呼ぶ理由としては充分だ。

 できれば、粉焼き屋の佳乃も呼びたいが、久間木は知らないことになっている。

 豊子と珠代が連れて来ることを期待するしかない。


「早苗さん、藤村さん…」


 こんな時に限って、怪談じみた母親と書生の話をした時の稔の顔が浮かんでくる。


 他から話を聞かされるのは面白くないと、不用な独占欲で稔に話してしまったことを久間木は今になって後悔していた。

 黙っていても、人との関わりの少ない夫婦が近所の人間に話しかけられることは少ないというのに。


 それとも、久間木自身があの頃はその結末を望んでいたのだろうか。


 久間木はひとり、頭を横に振った。


 子どもじみた嫌がらせだ。

 ただ、それだけだ。

 望んではいない。


 早苗が母親に似ていると思ったのは、ただの理由付けだったとようやく気がついた。


 一人の人間に強い執着を抱いて生き抜こうとしていたヤミ市の早苗が、美しく羨ましいと思ったのだ。


 思い詰めたような目の中に、誰かへの強い執着があった。

 その執着心が限界に達している小柄な女の命を支えていた。

 それは、危うく、透明だった。


 きっとこのヤミ市でだけ保ち続けることのできる、ほんの僅かな時にだけ咲く希少種の花だと思った。


 高い山で、僅かな期間にだけ咲かせる花のように。


 美しく可憐であるほど、その生育条件は限られている。

 だから、復員兵の稔と世帯を持ちながら、そのままでいる早苗を見つけた時、手に入れようと思った。

 他の所へ置いてしまっては、枯れてしまう。


 人を人と思わないことが多い久間木が抱いた執着を久間木自身が一番戸惑った。

 男女の愛でもない。

 親子の愛でもない。


 最も近い感覚は、憧憬だった。


 かつて母に対して持っていたもの。

 子どもの久間木には持ち得ないもの。

 それを、むしろ、ただそれだけを持って生きている早苗。


 愛しい相手への執着心。


 その執着心の強さは、愛情の深さと裏切られることへの恐怖心で出来ている。


 早苗自身は気がついているのだろうか。


 早苗は愛情の深い女であると。


 その愛情の深さゆえに、たくさんの人との関わりを断ち、稔との狭い世界に安住している。


 稔以外の人に心を与えてしまったら、稔への今までと同じだけの重さの愛を捧げることが出来なくなる。

 それが同性でも、恋愛感情のない年寄りでも。

 僅かでも心を与えてしまえば、裏切られた時の心の痛みに耐えきれなくなる。


 早苗の心は、脆くて弱い。



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― 新着の感想 ―
[一言] 久間木さんはヤンデレのオーソリティーですね( ˘ω˘ )
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