第百七十三話 地固まる前の雨 3
あれほど母を求めていたのに、実際に会いに行くことはなかった。
早苗を捨てた実の母親。
空襲で死んでしまった。
母親に捨てられた苦労を知らない能天気なバカ女に思えた豊子。
その豊子の方が、死んだ母親よりも今は心を占めている。
便箋の上を動いていた鉛筆が止まる。
雨音が、早苗の中で止んだ。
嫌いなままで、終われれば良かったのに。
佳乃も珠代も豊子も、知らなければ。
失うことを恐れずに済んだ。
稔さえいればいい。
それが早苗が決めた幸せの形だった。
稔から離れて職業婦人になることなど考えなかった。
稔のためにこの身を捧げられれば、それでよかった。
稔のために炊事をして、稔のために掃除をして、稔のために洗濯をして、稔のために裁縫をする。
稔のためになるのであれば、苦労など感じなかった。
はじめから、今でも、ずっと。
それが早苗の幸せだった。
正しくない。
歪んでいる。
世間様の言う幸福など、どうでもよかった。
社会は、嘘つきだ。
兵隊も戦争も侵略も、それが正義だと言い続けていた。
見えないところで、人を殺していた。
夫を人殺しにするために、差し出せと赤い紙を送ってきた。
その結果が、稔との別離だ。
生死も分からない状態で、早苗自身の命も脅かされ、血縁者を全て亡くした。
数少ない、親しい人も。
何も、与えてはくれなかった。
まるで、両親のようだ。
国は早苗たちに子どもとしての無力さと義務を押し付けて、それを放棄しようとすると、同じような立場の人間を使って攻撃をしてくる。
たすけてと、どれだけの人の声が、空に消えたのか。
早苗はため息を出すと、再び鉛筆を動かし始めた。
豊子には、料理のコツなど体で覚えるしかないのだから、とにかくちゃんと作ることを繰り返し書いた。
一枚の絵を豊子宛にしたことも書いた。
そのまま、佳乃にもお礼の手紙を書いた。
しばらく顔を出せないままになっている不義理を詫びて、良ければ絵を貰ってくれないかと書いた。
最後に、珠代宛の手紙を書き上げた。
三通の手紙を書き上げた後、早苗はすうすうと眠る稔の頭に手をやり、髪の毛を指先で撫で続けた。
「髪が、伸びているわね…」
伏せた目のまま、早苗は稔の髪を摘んだが、そのままはらりと落とした。
稔の顔に髪がかかった。
それをまた早苗が指先で払うと、稔がうっすらと目を開けた。
焦点の合わない稔の目を見つめる。
「手紙は、書き終わったのかい?」
「ええ、三つとも、書き終わったわ。」
「そう。」
稔はまた目を閉じると、早苗の腰回りに腕を伸ばし、そのまま抱き込んだ。
早苗は稔の腕に抱え込まれるまま、身を委ねて畳の上に横たわった。
稔が早苗の首筋に顔を埋める。
早苗は稔の頭の後ろに手を伸ばし、ゆっくりと撫でる。
早苗の着物の襟口に、稔が指を差し込む。
優しく、二人は触れ合い続けた。
雨垂れが庭先に音を立てて、落ち続けている。
どれほどの時間が経ったのか。
稔が言った。
「早苗、今夜でいいかな。」
「ええ、稔さん。」
早苗は目の見えない稔と、目を合わせている時と同じように両手で頬を挟むと、そっと唇を合わせた。
そして、美しく微笑んだ。
東京よりも北。
アスファルトのない砂利道を辿れば、田んぼ道を抜けて、子どもたちの声が喧しい農家の土間に着く。
学校から帰った甥っ子と姪っ子が喧嘩をしながら転がり回り、気がつけばまた一緒に遊んでいる。
乾かない洗濯物をどうにかしようと火鉢に炭を入れている豊子が怒鳴った。
「火がついてるから、こっちの座敷には入っちゃダメよぉー!」
てんでばらばらな所から「はーい」と返事が聞こえる。
座敷に張り巡らされた紐からぶら下がる洗濯物に囲まれて、火鉢の横に座って額に汗を浮かべたまま、豊子はさっき届いた手を読み始めた。
差し出し人は、久間木だった。
珍しい人から手紙が来たものだと、子どもたちに邪魔をされないように洗濯物の中に隠れた。
早苗に何かあったのだろうか。
豊子が嫌な予感を抱きながら、便箋を広げる。
書かれていた内容は、稔の失明。
「藤村先生が…?」
豊子は驚きを抑えきれないまま、続きを読んだ。
悪質な雑誌記者たちに囲まれて、追い払ったもののまだ家の雨戸を開けようとしない。
『雨戸越しに答えてはくれるものの、顔が見られず心配をしています。珠代さんにも連絡がつけられないか知り合いに頼んでいます。
もし来られそうならば、一日でも構わないので、来て欲しいのです。
おいでいただいた際は、久間木家にお泊まり下さい。』
久間木はどこまでも丁寧に、けれど必ず来て欲しいということを繰り返し書いていた。




