第百七十二話 地固まる前の雨 2
久間木は毎日、必ず早苗と稔に会いに来た。
何をするわけでもない。
傘をさして歩いて来ては、茶を飲んでしばらくすると帰る。
早苗は来る度に、久間木に絵の説明をした。
一枚一枚。
この早苗はいつ描かれたのか。
この絵は、どういう時に描いたものか。
それを稔は目を閉じたまま、横で座って頷いていた。
時々、薄く笑みを浮かべる以外、何もしなかった。
「なんだか年寄りの家に来ているようですね。ひとつひとつ、思い出話を聞いているようです。」
「まあ、久間木さんに言われてしまうと、おかしなものですね。」
早苗は、口元に手を当てるとふふふと笑った。
「なんだか珠代さんみたいですねぇ。」
久間木が思わずといったように、ぽろりとこぼすと、急に早苗の表情が消えた。
「そんなことは、ないです。」
「珠代さんから、まだ手紙も何も来ないのですか?」
「豊子さんからは何度か来ています。」
「……そうですか。」
「久間木さんは、ご存知なのですか?」
「いいえ。知り合いに聞いてみましょうか?」
早苗は首をふるふると横に振ったが、思い直したように、
「一度、お願いするかもしれません」
と言って黙った。
そのまま、久間木と目を合わせようとしなかった。
久間木は諦めたように、小さく頷いた。
早苗は畳の部屋を二間とも綺麗に片付けた。
物はすべて押し入れや茶箪笥にしまい、稔の足元の邪魔になりそうなものは全て取り除いた。
それに合わせて、どこに何があるのかを誰が見ても分かるように整えた。
これで、大丈夫。
早苗は足首につけた鈴を鳴らしながら、ぱたぱたと掃除を続けた。
左手首につけた鈴は、水仕事でだめになった。
稔はぼんやりと畳の上に座ったまま、早苗の鈴の音を聞いてうとうとと微睡んでいた。
雨が止んだ。
梅雨明けも近いのだろうか。
掃除を終えた早苗は、稔の背中にくっついてちゃぶ台の前に座った。
稔の荷物を片付けていた時に出てきた水彩画付きの便箋と封筒。
何かの小遣い稼ぎで稔が描いたもののようだった。
あの頃は、本当に生きることに精一杯で、何の仕事でも引き受けて描いていた。
道端で売っていたのかもしれない。
早苗は繕いものなどのお針子仕事で忙しかった。
稔と再び夫婦として暮らせる。
それだけで幸せだと思おうとしていた。
早苗は鉛筆を握り、豊子宛に手紙を書き始めた。
生き残ったのだから、幸せだ。
ご飯が食べられるから、幸せだ。
周りと比べて、自分よりもひどい暮らしの人たちはいるから、自分はまだ幸せだ。
戦争の時と何も変わっていない。
生きることに、決まった形を求められる。
兵隊を出さなければ非国民だ。
贅沢も買い占めも、してはいけない。
ぎちぎちに締め上げて、早苗たちの成すべきことを最初から決めつけられた。
敗戦後も、今度は戦争をしたことを自責することを求められた。
その次は幸せの形を決められた。
早苗は素直にそれらに従っていた。
けれど。
本来の人間など、それほど綺麗にまとめられるのだろうか?
早苗は豊子が嫌いだった。
料理ができない。
自分はこの程度の女だと、公言して憚らない。
だからなんだと早苗は思った。
早苗だって何も出来ない。
母親に置いていかれた時に、何がいけなかったのかと考えた。
どうすれば、大人たちに捨てられないか考えた。
それの結論が母親の真似事となった。
父親に捨てられないように。
周りの大人たちに見限られないように。
母親の代わりをしようと思った。
早苗は手先が器用だったのが幸いしただけで、何度も失敗や、思い通りの結果にならない料理や家事を繰り返して、出来るようになっただけだ。
何も出来ないからと、言えば済む状況ではなかった。
何も出来ないと、口にしただけで、すべてを許される環境で育った豊子に、嫉妬をしていた。
ーーーわたしは、捨てられないように必死だったのに。
何もしなくとも愛される存在だったと、無邪気に口にする姿はバカ女と思うしかなかった。
そうしなければ。
早苗の価値が無くなってしまうからだ。
懸命に大人たちに少しでも好かれようと、家事を覚えた。
火傷をしても、指を切っても、父親にため息をつかれて無視をされても。
それでも。
早苗は愛されたかった。
だから、もがいてもがいて、家事を、針仕事を覚えた。
誰かに愛されるために。
子どもがひとりで生きていけるわけがなかった。
どこかに奉公に出されるならいい。
何もされずに、捨て置かれていかれたら?
母親ですら、早苗を捨てていった。
弟は連れて行ったのに。
どうしてどうしてどうして。
何度も問い詰めたかった。
けれど、母親はいない。
父親に聞いて答えを言われたら。
「だからお前は捨てられて仕方ないんだ」と、今度は父親に置いていかれたら。
早苗は人に捨てられないという自信がまったく無かった。
根拠の無い自信を持っていなかった。
だから、何も出来ないことを当たり前のように口にしても、何も不安に思わない豊子が嫌いだった。
嫌いだったはずなのに。




