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第百七十一話 地固まる前の雨 1

 午後になるとすぐに、久間木と一緒に畑仕事をよくしている男が背負い籠いっぱいの食料を置いていった。

 早苗はお茶をすすめたが、雨で頭が痛いから帰ると言って、玄関先から入ることもなかった。


 その声を聞いていたのか、布団に寝ていた稔が早苗に声を掛けた。


「誰か来たのかい?」

「久間木さんの畑仕事を手伝っている方よ。

 食べ物を届けてくれたの。

 稔さん、食べたいものはある?」

「…そうだな。早苗の梅干しが食べたい。」

「じゃあ、おにぎりにしましょうか」


 早苗は微笑み、稔に届くように声を張り上げた。




 早苗は狭い二間の部屋を片付けていった。


 画材は稔に聞いて、使いかけは捨てて、未使用のものだけ残した。

 押し入れに詰め込まれていた稔の絵も、稔にひとつひとつ聞いては、久間木に売るもの、人に譲るもの、処分するものと分けていった。




 稔は一枚一枚の絵を覚えていた。

 早苗を描いた絵も、それぞれ違いを指摘した。


 早苗は久間木に売ると決めた絵の裏に、一枚一枚『売約済み』と書いた紙を貼っていった。


 その内の三つを取り除いて、早苗は押し入れにもう一度仕舞い直した。


 一間分の押し入れ上段に、久間木宛の絵が全て収まった。

 下段の方に画材と三枚の絵をまとめて置いた。


 すっきりとした仕事用の部屋から稔を追い出すと、早苗は掃除を始めた。

 梅雨の湿気を気にして、きつくきつく雑巾を絞ってから、畳を拭いた。すぐに乾いた雑巾で二度目の畳拭きをしていると、稔がうめいた。


「早苗。いるのかい?」


 雨音にかき消されて、早苗の音が何も聞こえなかったようだ。

 稔は離れた場所にいる早苗を音で拾う以外の方法を知らない。



 早苗は、


「なあに?稔さん。ここにいるわよ。」


 と、返事をした後に、思いついたまま、裁縫箱を開けた。




 中には糸と針と鋏と、細々としたものがまとめて入っていた。


 ひとつだけあるボタン。


 足袋から取れたコハゼ。


 そして、巾着についていた鈴がいくつか。





 早苗はその鈴をとると、余っていた紐を通した。

 その紐を稔に渡すと、手首に付けるように頼んだ。

 稔は手探りで紐を早苗の左手首にくくりつけた。

 早苗は少し考えてから足首にも同じように鈴をつけた。



 そして、立ち上がると軽く手と足を振った。



 チリンチリン


 早苗が動くと鈴が鳴った。



「稔さん、これなら、わかる?」



 嬉しそうに早苗は笑うと、また手を振って鈴を鳴らした。

 稔は音の聞こえる方へ顔を向けると、嬉しそうに笑った。



 しばらくの間、雨音に混じって鈴の音が鳴り続け、男女の笑い声が静かに広がっていった。






 早苗は掃除を続けた。


 元々、整理整頓された家だったが、拍車がかかっていた。


 見舞いに訪れた冨田と竹中にお茶をすすめながら、


「稔さんが触っても大丈夫にしたいので。」


 と、早苗は困ったように微笑んだ。


 冨田も竹中も何も言えずに黙ってしまったのを感じた稔が、目を閉じたまま、会話の間を取り持った。


「早苗がついていないと、物を探すのにも全て触らないといけないからね…。

 赤ん坊のようなものだよ。

 何が危ないのかわからないから。」


 努めて以前のような口調にしているが、失明をした稔を目の前にした冨田と竹中は、どう声を掛ければいいの分からなかった。



 稔は目を開けようとしない。


 目を合わせれば、焦点の合わない稔の目を二人に見せなければならない。


 それを稔は嫌がった。



 稔はずっとまぶたを閉じたまま、二人と応対し続けた。



「…目は、まったく見えないんですか?」


 途切れ途切れの会話も限界に近づいた頃、竹中が思い詰めたような口調で、稔に尋ねた。



「うん。すべて、終わってしまったんだ。」



 稔は首を縦に振ると、目を閉じたまま、早苗に絵を持ってくるように頼んだ。



 早苗が立ち上がると、鈴の音が鳴った。

 冨田と竹中がはっとしたように早苗を目で追ったが、何も言えないまま、座って待っていた。



 早苗が持ってきたのは、画用紙に描かれた稔の絵だった。


「よければ、好きなものを持って行ってください。もう描けませんから。」


 稔が弱々しく言うと、竹中は急に泣き出した。


「…お前のせいじゃないって。」


 冨田が竹中の背中をどんどんと叩いた。

 稔は困ったように曖昧な笑みを浮かべた。



 冨田と竹中は、花を描いた絵をそれぞれ貰って帰った。


 二人が帰った後、稔は残った紙をすべて燃やしてくれるように早苗に頼んだ。

 早苗は何か言おうとしたが、黙って受け取って、竈の中へ押し込んだ。


 残っていた熾火で紙は端の形を変えると、あっという間に火を作り上げて竈の中を明るく照らした。


 ふわり、と描かれた花や人が揺れるとすぐに崩れて灰になっていった。


 早苗はそれを黙って見ていた。







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[一言] マジで竹中のせいじゃない( ˘ω˘ )
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