第百七十話 雨音の契約
あけましておめでとうございます。
物語も終盤になって参りました。
最後までお付き合いいただければ幸いです。
この一年があなたにとって良き一年となりますように。
久間木が記者たちを追い払い、竹中と冨田が雨戸越しの訪問をしてから数日後。
早苗は雨戸を外し、いつも通りの生活を始めた。
いつも通りに、朝起きて炊事をし、稔と朝飯を食べる。
その間に稔は早苗の用意した着物を手探りで着て、台所で顔を洗う。
畳の部屋以外の場所には、必ず早苗がついて回った。
雨が降り続いているので、家の外には出ることはなかった。
雨戸を開けたその日の午前中に、久間木が傘をさして訪ねて来た。
「早苗さん、何か足りないものはありますかね。
食べ物はとりあえず午後に届けて貰うように頼んでおきましたが。」
久間木は出された茶を飲みながら、のんびりと「見舞いですよ」と早苗の返事も待たずに遠慮を断った。
早苗は少し青白い顔をしながらも微笑みを浮かべ、張りのある声で久間木に礼を述べた。
「ありがとうございます。
わざわざお気遣いいただいて。稔さんを置いて買い物に出るのは、不安だったので。」
「いやいや。あの記者たちが悪いんですよ。根も歯もない出鱈目を記事にしようとしていたんですから。
ここは私の土地ですからね。堂々と追い払ってやりましたよ。」
「…そうだったんですか。お手間をおかけしました。」
礼を言う早苗を久間木はじっと見つめていたが、何も言わなかった。
雨音が弱まってきたのか、隣の部屋で寝返りを打つ稔の身動きする気配が、久間木にも伝わってきた。
「藤村さんは、まだ起き上がれないほど体調が悪いのですか?」
早苗は茶のおかわりを久間木に注いで、自分の湯呑みにも同じく足した。
「…いえ。明け方まで眠れなかったので。
見えないのですが、日がのぼり始めると寝つきやすいみたいで。」
「そうですか。
……早苗さん、失礼を承知で伺いますが、お金は足りていますか?」
久間木は店子を親身に思う大家の表情で、早苗を見つめた。
早苗は一度目をそらしてから、意を決したように久間木と目を合わせ直した。
「しばらくは、あります。
画集と画廊で売れた分のお金が入りましたので。
ただ、それもいつまで続くかわかりませんし、稔さんをひとりにもできません。
それで、厚かましいかもしれませんが、久間木さん、稔さんの絵を買っていただけませんか?」
「それは」
「本当なら、画廊の方にお願いすればいいのでしょうが、わたしを描いた絵を今売り出されるのも…」
久間木は早苗の申し出に驚いて、しばらくの間は無言のまま、茶を啜った。
早苗はじっと下の方を向いて、久間木の返事を待っていた。
久間木は茶箪笥の上に、桜の木の下に咲く紫陽花の花が一輪、生けてあるのを見つけて、珍しいものを見たような顔をした。
また久間木は茶を啜ると、はっきりと大きく頷いた。
「いいですよ。早苗さんを描いた絵を買い取りましょう。
ただし、今すぐに引き取ることはしません。
買い取った絵は藤村さんの家で保管しておいて下さい。絵の裏に売約済みの印を貼っておいてくれればそれでいいです。」
早苗はぼんやりとした顔で久間木を見返したが、何も言わなかった。
その無言の間に久間木は畳み掛けるように、話を続けた。
「一枚いくらなのか、ちょっとわかりませんからひとまずの手付け金を支払いましょう。その後に、適正な金額を上乗せして支払います。
もちろん、私が適正と思う金額まで値は上げていきますから。
今の金額で一万円でも、五年後に十万円になっていれば、その差額は必ずお支払いします。」
「それは…」
「私が絵を引き取るまでは、それで支払いをしますから、しばらくは気を揉まずにお過ごしなさい。」
久間木はにっこりと好々爺の笑顔を早苗に見せた。
早苗はやはり本来の父親とは、こういうものなのではないだろうかと改めて思った。
早苗の目尻が少し下がった。
「…ありがとうございます。
これからの事を考えると、どうしても気がかりだったもので。」
「早苗さんの気が休まるのなら、お安い御用です」
早苗は畳に手をつくと、ゆっくりと久間木に向けて頭を下げた。
久間木は頭を下げた早苗を見て、泣き出しそうに顔を歪めた。
それも一瞬のことで、早苗が頭を上げた時には、慈愛に満ちた好々爺の顔に戻っていた。
雨音だけが二人の間に同じように響いていた。




