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第百六十九話 早苗の回想 5

 早苗は眠ることもできずに、一晩中ずっと、隣の部屋の物音に耳を傾けていた。


 稔が吐き出したり、死んだりしてしまわないだろうか。


 早苗が望むのは、稔の目を奪うことだけだ。

 死なないで欲しい。


 ただ、目だけを失って、そして、早苗だけのものになって欲しい。

 これからずっと、ふたりがいいから。


 早苗は布団の中で、稔の目だけを奪えるようにと祈りながら、失敗して死んでいたらすぐに台所から包丁を持ってきて自殺しようと考えたり、落ち着かない感情と思考に揺さぶられ続けていた。


 心臓の音だけがどくどくとやかましたかった。



 手のひらに汗がにじむ。


 じっとりと寝巻きが湿っている。



 横になっているだけなのに、早苗の体は全力疾走を繰り返しているように、落ち着きがなかった。



 結局、竹中を帰した後になっても、稔は起きなかった。




 失敗、したのだろうか。




 昼過ぎに稔はようやく起きた。

 腹を下している以外は、いつも通りだった。


 目を合わせれば、愛おしそうに早苗を見た。




 早苗は、失敗したのが、すべてのことにたいする(ことわり)なのだろうと、諦めた。




 諦めてしまえば、なんのこともない。


 今までの生活が続くだけだ。



 稔が戦争に奪われそうになったら、足の骨を折ろう。

 アトリエについていっても何もすることがないのなら、アトリエで縫い物を強行してみよう。



 至極真面目に、早苗は荒唐無稽なことを考えはじめた。



 諦めろ。


 諦めるんだ。



 稔は、早苗の手の中に、堕ちてこなかった。





 それだけだ。




 早苗は眠れなかったままに、頭の中がぐるぐると空回りをしている。

 どうにも思考が止まらなかったので、時間をかけて煮物を作ろうと思った。





 夕方になって、稔がまた目を覚ました。

 すっかり一日を寝て過ごしたようだ。

 一体、昨日はどれだけ呑んだのだろうと、そう思っていたら、





 稔が失明していた。






 早苗は、本当に稔が生きていて、目だけが見えないと知ると、



 涙が流れた。





 やった、やった、やった!


 稔が、早苗に堕ちた。



 もう離れない。


 もう、稔は絵を描けない。


 ()()()()()()()()()()()()()()



 早苗は、歓喜の涙を流した。







 入院前も、入院中も、早苗がいなければ稔は生きていけないような状態になった。


 早苗がいなければ、眠れない。

 早苗がいなければ、ご飯も食べない。


 早苗、早苗、早苗。


 稔は息をするように、早苗の名を呼び続けた。


 病院のカーテンで仕切られたベッドの中で、稔に抱きつかれながら、早苗は恍惚と微笑んでいた。






 早苗の動きに合わせて、久間木が細工を施していることになど、まったく気がついていなかった。

 早苗を筆頭に、誰ひとりとして。








 退院する時に、曾根崎夫人への謝罪のような言葉を早苗は思わず口にしてしまった。


『ありがとうございました。

 曾根崎さん。

 …奥様にも、よろしくお伝えください』



 言葉としては、失明した画家の妻として、痛みをこらえたように思われただろう。


 しかし、早苗は稔を奪おうとしていた曾根崎夫人に対して、勝利をおさめたような勝ち誇った気持ちでいた。

 それが零れたように、出てしまっただけだった。





 退院をして、自宅に帰っても稔は早苗を離そうとしなかった。

 時々、家事などで離れなければならない場合、早苗が何をして、どれくらいで戻ってくるのか、必ず尋ねた。

 便所などの短い用事の時は、数を数えて待っていた。

 その姿を見るたびに、早苗は今まで経験したことのない悦びに胸が満たされる感動に、身を打ち震わせた。



 稔は、早苗が、いなければ、



 生きていけない男に堕ちた。



 声をあげて笑い出したいくらい、早苗は嬉しかった。



 もう、女たちにとられることもない。



 戦争が始まっても、こんな男は、徴兵されない。



 声を出さずに、口元に笑みを浮かべて、布団の上に寝ている稔を見下ろす。



 もう、()()()()()()()()()()()



 稔は、早苗だけの、ものになった。




 その代償に、



「わたしの、すべてを、あなたに、あげるわ…」




 聞き取られないように、小さな声で呟いた。






良いお年を。




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― 新着の感想 ―
[一言] 戦争がなかったら、また違ったんですかねえ( ˘ω˘ )
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