第十六話 盛夏の祭り 4
稔は上り框に腰掛けたまま、包丁を持った早苗と向き合っていた。
「早苗?どうした?危ないから、横に置きなさい。」
稔は一瞬たりとも、早苗から目を離すまいと見つめていた。
早苗は真っ白になった頬で、稔を見つめ返しながら、ぴたりと包丁の切先を自分に向けていた。
早苗は何かを言おうと、色を無くした唇を開くが、そこから声は出て来なかった。
真っ直ぐ立っていた早苗は、わずかに身を屈めた。包丁が早苗の喉に触る。
唇をぎゅっときつく結び、目を閉じる。
稔さん。
早苗は最愛の人の名を呼びたかった。
けれど、それもしてはいけないように思えた。
嫌われたらどうしよう。
稔さんがいなくなったらどうしよう。
戻って来るか、不安に怯えながらも、希望を持てたあの時の方がまだ良かった。
今は、手放されたら、それは、もう、
終いだ。
稔は早苗が目を閉じるのと同時に、ゆっくりと腰を上げた。
そのまま、下駄を脱ぎ、足音を立てずに早苗へ近付いた。
絵描きの命である利き手の右の手を、ためらうことなく、包丁を持つ早苗の手に伸ばした。
冷たい手を稔の手が包んだ。
びくっと早苗の手が震える。
稔はその前に、刃先を早苗から離すように、わずかに自分の方へと包んだ早苗の両手ごと、引っ張っていた。
早苗の喉に傷は付いていない。
稔は心の中で安堵した。
そのままの状態で、稔は早苗に話しかけた。
「早苗、危ないから、手を離して。俺はお前が傷付いたら、嫌だよ。」
早苗は目を開くと、稔の顔を凝視した。それは恐怖と僅かな期待と、哀しみがない混ぜになっていた。
「早苗、愛しているよ。
お前に何があっても、俺はお前を愛しているよ。
だから、傷つけないでくれ。
この手を離して、俺の手を握ってくれ。」
稔はゆっくりと、はっきりと、早苗に言った。
そこに偽りは無いと、早苗は思った。
そう理解した途端、早苗の両手は包丁を握ったまま、震え出した。
強ばった手は解ける様子を見せず、ただ、稔の手の中で震え続けた。




