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第百六十八話 早苗の回想 4


 稔の目を奪う。


 そして、離れない。





 今までぐらぐらと動き続けていた不安が、久間木の啓示と発熱の力でわずかに溶けた。

 一時的なまやかしの安心感に身を委ねたせいか、夢を見た。




 夏の日に、珠代と豊子がいる。

 いつかの頃のように、とりとめのない会話をして土間で台所仕事を三人でしている。



 稔は、いない。



『個展を始めた時には思いもよらなかったわ。でも、わたしは稔さんの絵が好きなの。

 たくさんの人に見て欲しいし、認めて貰いたいわ。』



『ええ、今日も泊まりなの。だから、ゆっくりしていって。』



 稔が、いない。



『今はもう慣れました。寂しくなんかないもの。珠代さんも豊子さんもよく泊まりに来るから、寂しくなりたいくらいよ。』



 稔が。



 胸の奥が、痛い。


 夢なのに。


 夢であっても。






 嫌だ。




 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!



 稔がいない!

 稔がいない!


 みのる


 みのるが





 目を開ける。





 暗闇の中に、隣に眠る稔の寝息が、聞こえて来る。



 いる。


 みのるは、



 ここに、いる。




 手放したくない。



 目を奪おうが何をしようが、稔を。






 暗闇の中、ずっと早苗は涙を流し続けた。


 まぶたに朝の光が届くまで。



 稔のいる世界だと、眠る稔の顔を見て、ようやく眠りに、ついた。





 早苗はアトリエに向かう稔を毎日見送りながら、考え続けた。


 稔が絵のことばかりを考えていた頃、早苗は稔を見つめ続けた。




 ーーーわたしのところに、戻って。





 目を奪っても、その後も稔の隣に居続けるために、早苗が飲ませたと、分からないように、


 稔が何件も呑み屋を歩いて、泥酔して帰って来た時に、()()()()()()()、飲ませよう。


 早苗は、そう決めた。







 決めたけれど、()()がいつになるのかは、早苗には分からなかった。

 このまま、稔が呑みに行くこともなく、早苗がメチルアルコールをお守りにして、稔の目を奪うことを夢想して終わることも、少しだけ、期待していた。


 ただ、早苗の予想以上の早さで、その機会は、訪れた。


 画集重版の祝いによる、酒宴。


 酒宴の場所は、呑み屋街だった。

 稔が、酒宴会場だけで帰ってくるはずは、ないと、早苗にも容易に予想できた。


 だから、聞いたのだ。



『本当に、行くんですか?』



『呑み過ぎたら、知りませんからね。』




 あなたに、一度だけ、メチルアルコールを、飲ませるから。




 一度だけ。



 一度だけ、試させて。



 そうしないと、わたしが、壊れてしまいそうだから。



 稔さん。



 愛してるわ。









 早苗は稔を送り出してから、台所と部屋の掃除をし始めた。

 する必要など、何もないのに、丁寧に、丁寧に掃除を続けた。


 台所の棚に隠していた化粧水の瓶を、日本酒と焼酎の瓶の隣に、置いた。







 稔は、泥酔して帰ってきた。

 何軒回ったのかも、うろ覚えだった。


 早苗はいつも通りに稔を迎えて、送ってくれた竹中を引き止めた。


『終電も出ているはずですから、泊まっていって下さい。ご迷惑をお掛けして。ごめんなさいね。』


 空豆(そらまめ)を茹でるために、お湯を沸かす間に、残り少ない日本酒を銚子にすべて注ぎ入れる。

 そして、大きめの湯呑みに化粧水の瓶からメチルアルコールを注ぐ。


 なんとなく



 早苗の指先と、流れ落ちる液体の感覚で、はかる。



 すいっと瓶を持ち上げ、そのまま流しに捨てる。

 すべて。



 空になった瓶を流しに横置きしてから、焼酎と水を湯呑みに、足す。


 十年前の焼け跡の空気と風景が、一瞬だけ、戻る。


 ごくり、と生唾を飲み込んだ。


 これがどの程度の毒なのかは、わからない。


 稔が死んだら、早苗も死のう。



 それを怖いと思いながら、わずかに嬉しいと、早苗は感じた。



 竹中に銚子と猪口を渡し、稔に焼酎を渡した。

 稔は焼酎の匂いに顔を(しか)めたが、そのまま呑み始めた。


 早苗は途中で稔が吐き出してしまえばいいと思いながら、早く呑んでしまえばいいとも思う正反対の感情を無表情の中に押しとどめた。



 これが、最初で最後だから。



 これで、稔が早苗のものにならなければ、諦めるから。




 何を諦めるのかは、はっきりとわからないけれど、もう稔にメチルアルコールを飲ませることは、ない。


 あとは、結果を見るだけだ。


 早苗は稔にメチルアルコールの入っていない焼酎のお代わりを用意した。



 化粧水の瓶は念入りに洗って、空の瓶のまま棚にしまった。


 空の瓶を置く時、ふと、珠代なら、なんと言っただろうかと思ったが、早苗が口を割ることもないので、無用な考えだと思った。







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