第百六十七話 早苗の回想 3
メチルアルコール入りの化粧瓶と、伊東夫人からの手紙が入った手提げ袋を持ちながら、稔と歩いた夜の銀座は、綺麗だった。
キラキラと街灯の光が輝いて見えた。
それは、早苗が望みを抱いたから。
翌日、日本酒と一緒に焼酎も買った。
メチルアルコールは焼酎と混ぜて飲ませていた。匂いを誤魔化すためだ。
日本酒よりも格段に安い焼酎は、「お金がちょっと…」と小声で酒屋に言えばあっさりと納得された。
誰も早苗の行動を咎める者はいなかった。
二本の一升瓶を風呂敷に包み、うっすらと額に汗をかきながら、木陰を歩く早苗はうっすらと微笑みを浮かべていた。
誰も気が付かないままに。
『何も要らない。稔さんがいればいいの。』
早苗は嘘をついていない。
心からの本心だった。
ただ、その方法を口にしなかっただけだ。
画廊で曾根崎に稔の支援を申し込まれた時は、まだお守りのように化粧水の瓶を台所に置いていただけだった。
使うことを想像しては、うっとりとしながらも、早苗はまだ稔を失明させることを本気で考えてはいなかった。
一度だけ試せるお守りを持っている。
それだけで、焼酎はすぐに飲み干されて終わるはずだった。
それが。
アトリエと、曾根崎夫人。
稔から離される。
稔の絵を本気で求めている人がいる。
早苗の稔ではなく、画家としての稔だけを必要とする人たちがいる。
早苗も稔の絵は好きだ。
大好きだ。
けれど、そのために稔と離れることは怖い。
久間木の家の店子でいるから繋がっていられた豊子と珠代、そして久間木家の人々。
その人たちとも、離れてしまう。
怖い。
離れたら、もう戻らない。
離れながら、繋がり続けることなんて、できるわけがない。
母に置いていかれたのは、離れたいと母が思ったから。
父親には、なんの関心も抱いてもらえなかった。
奉公人として、女将さんのところで暮らし始めてから、一度も父親は会いに来なかった。
義母も弟も。
離れれば、それで、終わり。
早苗の知っている人との関係は、いつもそうだった。
離れても豊子は手紙をくれる。
けれど、それもいつまで続くのか。
豊子に子ができれば、早苗に構っている暇などないだろう。
いつ終わるのか分からない関係に怯えながら生きていくことは、耐えられそうにない。
待つことは、稔の時で、全ての忍耐力を使い切った。
稔は戻って来てくれたけれど、今でもあの時の恐怖は夢に出てくる。
もう充分だ。
もう、充分に傷ついている。
これ以上の傷が、心の中の傷が増えるのなら。
怖い。
ただ、怖い。
恐怖でしか、ない。
藤棚の花を見上げていても、ただ怖くて怖くて仕方がなかった。
このまま、ずっと日が暮れなければいいのに。
もう夕陽が沈んだら、もう昇らなくていいのに。
本気でそう思った。
そのまま、熱を出した早苗は、ずっと戦争中ひとりぼっちの夢を見続けた。
目を覚ますと忘れているが、恐怖感は残っていた。
泣きながら、久間木に駄々っ子のように愚痴を吐いて、
『それなら、藤村さんも早苗さんが居なければ絵を描かないということじゃないですか。
早苗さんの方が大事ということではないんですかね?』
と、久間木に言われて。
正しい父親像の久間木が言うならば
それは正しい。
ひどい自分勝手な理屈で、早苗は言質を取った、と思うことにした。
早苗が稔の目を奪うことは、誰がどう見ても卑劣な行為だ。
愛した夫の目を奪う妻など、悪妻以外の何者でもない。
けれど。
妻に失明させられた夫
それが一生残る。
藤村稔の目を奪った妻の藤村早苗の名前は、一生、稔から剥がれない。
それだけでもいいのかもしれないと、早苗は思ってしまった。
だから、
『あまり考え込み過ぎると熱が上がって、目が見えなくなってしまいますよ。
恋は盲目と言いますが、早苗さんは本当に藤村さんが好きですねぇ。』
久間木の言葉を啓示のように受け取ることに、してしまったのだ。




