第百六十六話 早苗の回想 2
画廊で稔が刃物を向けられた後。
何も手がつかないままに過ごしていた時に、柏葉のついた蒸しパンを久間木が持って来た。
珠代の話をして、何気なく久間木が言った言葉が、記憶の中の何かを刺激した。
『こうして桜の木を眺めるのも、あと何度あるのか。
旅も目が見える内に出なければ、と思ったのですよ。
目が見えなくなっては、ひとりでは何も出来ませんからね。』
目が見えなくなっては
ひとりでは何も
できない
何を言われたのか、混乱した頭ではすぐには分からなかった。
久間木はただの世間話を口にしただけだ。
それだけだ。
それなのに。
それは。
ヤミ市で
早苗の手先の器用さを
重宝がられた理由。
人が死なない程度に
失明しない程度に
混ぜ物の酒を作れたことだった。
ヤミ市であっても、客同士の口は繋がる。
どこの酒はバクダンだった。
どこの酒はカストリ酒の割に美味かった。
値段も重要だが、死なない、目が潰れないことも、また大事なことだった。
中には死ぬつもりでバクダンを飲む人間もいたが、必ず成功したわけでもない。
売る側としても、人を殺すことを目的に売っているわけではないのだ。
危ないと思えば、死なない程度に混ぜる。
金を儲けるために、混ぜ物を出しているにすぎないからだ。
だから、早苗の勘で微妙な調整のできる混ぜ物の酒は、背の曲がった店主のオヤジに大層褒められた。
「客を見て混ぜろ。人によってメチルが多くても大丈夫な奴がいる」
それだけの指導と、何度か店主のオヤジの見本を見せられただけで、早苗は混ぜることを覚えた。
勘だった。
なんとなく見た時の体や顔つきで、この人ならここまでは大丈夫。
この人は、死にそうだ。
ぎりぎりで目が潰れないように、混ぜる。
酒を飲めない早苗が味見をしたことは一度もない。
それでも、死なせるどころか、目を潰すことすら、一度もなかった。
その行為は、記憶の海の中で、稔と再会したその時から、ずっと沈んでいたものだった。
それが。
十年経った頃に、また
思い出すとは思わなかった。
早苗は久間木の後ろ姿を見送りながら、ずっと考えていた。
実際には僅かな時間であっただろうが、早苗の頭の中では目まぐるしく思考が働いていた。
戦争がまたあったとしても、稔が失明していれば、徴兵されることはない。
それどころか、目が見えない稔は早苗なしでは生きてはいけないだろう。
女たちが寄ってきても、顔も何も見えない。
美しいも醜いもない。
記憶の中にある早苗だけを覚えていてくれるのなら、これ以上年を取る姿を見せることもない。
それに、もし。
そうなれば、もう稔から早苗の名前が離れることはない。
素敵な考えかもしれない。
久間木の姿が見えなくなった時には、もう早苗の心は決まっていた。
早苗はすぐに動いた。
縁側を片付け、柏葉つきの蒸しパンをまとめて風呂敷に包んでちゃぶ台に置いた。
そして、稔のいる画廊へ向かう途中に買い物を済ませることにした。少し大きめの手提げ袋に割烹着と珠代に貰った化粧水の空き瓶を入れて、鏡の前で髪を撫で付ける。
『お夕飯は、柏餅と凍み大根と筍の煮物と、帰りに揚げ物を買えばいいかしら』
夕飯の買い物に行くかのように、メチルアルコールを買いに行くことにした。
電車を乗り換え、来たことのない駅で降車し、知らない大きな店でメチルアルコールを買う。その前に、物影で割烹着を着用した。
何気なく、「お店で使うアルコールランプの、そう、メチルアルコールを下さい」と、早苗は口にした。
早苗は購入したメチルアルコールの瓶を割烹着を脱いだ物影で取り出すと、水洗いをして取っておいた化粧水の瓶を手提げ袋から取り出した。
そして、化粧水の瓶に入るだけのメチルアルコールを入れると、残りを下水に捨てて、空き瓶をゴミ捨て場に置いて立ち去った。
一度だけ。
早苗はメチルアルコールの入った化粧水の瓶を脱いだ割烹着に包み、手提げ袋に入れた。
割れないように。
見つからないように。
一度だけ。
早苗は髪に手をあてて、乱れがないか整えながら、駅に向かって歩き始めた。
歩きながら。
電車に揺られながら。
稔のいる画廊に向かいながら。
早苗はどきどきと早鐘を打つ胸を抱えながら。
一度だけ。
一度だけ、稔にメチルアルコールを使うことを、
自分に許可を出した。




