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第百六十五話 早苗の回想 1

 きっかけは、どこだっただろうか。


 早苗は稔の腕の中で、ふわふわと思考を(もてあそ)んでいた。

 半分眠っているような、意識がまだ覚めているような、微睡(まどろみ)の中で早苗は考えていた。


 雨音がさやさやと布団の中の早苗と稔を包んでいる。




 稔が画集のために、絵を描き始めた頃だろうか。

 毎日のように家に来ていた、たくさんの若い娘たち。


 早苗が戦時中に失くした若さと美しさを持った娘たちを見て、焦燥感に駆られた。


 結婚をして、毎日のように甘い仕草と言葉で、稔に愛でられていたというのに。


 床に染み込んだ油のように、じわりと残る不快感。拭っても拭っても、一度落とされた不快感は、じわじわと広がるだけで消えない。


 早苗は努めて、それを見ないふりをした。


 鏡を見る時間が増えたように思ったが、年をとれば、仕方がないことだと思うようになった。

 だが、稔に年老いていく様を見られるのかと思うと、ひどく気が沈んだ。


 稔の方が年上であるし、比較対象のいない状態から、一足跳びに捨てられる想像をするほど愚かではない。


 ただ。


 何か、違和感が残った。




 年老いた稔と早苗。


 二人が並んで老後を送る姿が想像できなかった。


 いつまでも男女の営みを続けられる訳がないのだが、それが欠けた時に稔は早苗を必要とし続けてくれるのだろうか?

 絵を描くことに、稔を奪われてしまうのではないだろうか?


 稔に自分の姿を描かれる事を必要としない早苗にとって、絵を描く稔は必須ではなかった。

 むしろ、邪魔なものになる恐れの方が強い。


 絵を描くことは、生活のために必要だ。それは分かっている。



 けれど。



 それがどうだと言うのだろうか。



 また戦争が始まれば。

 男手の少ない今なら、四十前の稔はまた召集されてしまうだろう。

 そうなれば、生活がどうのこうのと理由にしていたことを後悔するだろう。



 もう二度と、離れたくない。



 国が、戦争が、早苗から稔を奪うのならば。



 稔の目を奪ってしまえばいい。



 かつて、稔から聞いた女たちからの暴力。

 徴兵検査から外されるように折った腕。



 聞いた時はなんて酷いことを、と憤った。



 今の早苗なら、そんな怒りを抱いた自分を鼻で笑うだろう。



 お前は知らないのだ。


 稔のいない空虚さを。


 稔のいない空襲の恐ろしさを。


 稔がもう死んでしまっているのではないかと、不安と恐怖で頭が狂いそうになる、あの苦痛を。



 すべて燃えた。



 遮るもののない青い空を独りで見上げたあの日。



 感情全てが消えればいいと思った。


 そうすれば、苦しくないから。


 記憶全てが消えればいいと思った。


 そうすれば、痛みを覚えないから。


 泣くことも、声をあげることも、無痛ではなかった。

 ただ痛みが増すだけだった。


 たった独りで。


 ろくでもない親でも、懐くわけでもない弟でも、血の繋がりのないただの雇用主であっても。


 人の死に慣れることなど出来なかった。


 痛みは積み重なって、早苗の感情の起伏を奪っていった。

 周りを見渡せば、皆、同じ。


 ただ、早苗だけが、ひとりぼっちだった。


 怪我がなかったからまだいいだろうと言われる。

 その言葉は、何を意味しているのか、最初分からなかった。


 医者にかかる必要がないから、良かったというのだろうか?


 気が狂えばいいと思いながら、正気を失えない地獄にいることは、無傷と言えないのではないだろうか?


 早苗の心は傷つき、痛みを抱えていた。

 それを当たり前のことだから、皆が同じだからと、放置して。



 それは正しいの?









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― 新着の感想 ―
[一言] さ、早苗、まさか……!?!?
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