第百六十四話 閉ざされた家の中で
ほとほとと、雨垂れの音がする。
閉め切った部屋は、暗い。
雨戸の隙間には紙を貼った。
誰にも覗かれないように。
外には人の気配。
人がいるなら、日中なのだろう。
「……稔さん、起きてる?」
敷きっぱなしの布団に、早苗は裸のまま寝ている。
その肩を抱いて寝ているのが、稔。
すうすうと稔の寝息が漏れる。
早苗は稔の寝巻きの襟を合わせて、薄い掛け布団をかけた。
そして、稔の隣に身を潜り込ませる。
稔の体の匂いを嗅ぐ。
早苗の体と同じ匂いになっている。
それを確かめた早苗は口元だけで笑った。
稔が退院して帰宅したその時から、早苗の居場所を稔は知りたがった。
見えない世界。
その中で唯一の光が早苗だった。
早苗なら触れられる。
早苗なら匂いを嗅げる。
早苗なら声が聞ける。
早苗なら口付けを与えてくれる。
触れていないと、稔は今を認識出来なかった。
戦地にいなかったもの。
それは早苗だ。
早苗の声がすれば、ここは今で、戦地ではない。
兵隊ではない稔に触れてくるのは、早苗。
早苗がいれば、安全な場所。
早苗がいれば、眠れる場所。
早苗がいれば、戦後の世界と分かる。
早苗の温もりが、稔に今を認識させる。
稔は絶えず、早苗に触れ続けた。
最初は服の上から、早苗の温もりを確かめた。
記者たちが押しかけてくるようになって、雨戸を締め切ってからは素肌に。
早苗、早苗、早苗。
それだけを稔は口にしていた。
その声を聞くたびに、早苗は応えた。
「なぁに?稔さん」
「はい。稔さん」
「好きよ、稔さん」
「愛してるわ。稔さん」
早苗は稔の求めに応じ続けた。
壊れた蓄音機のように、互いの名前を繰り返すふたり。
鍵をかけた家の中で、締め切った部屋の中で、ふたりだけしかいない布団の中で。
稔は早苗を求め、早苗は稔に応え続けた。
狂ったように。
「早苗、早苗がいないと、生きていけない…」
顔も見えない暗闇の中で、雨音の合間に稔が呟く。
「稔さん、わたしだって、稔さんがいないと、生きていけないのよ…」
ゆっくりと稔の頭を抱き、早苗が耳元に口づけを落として言った。
「離れたくない…」
「早苗……」
「もう、ひとりにしないで…」
「早苗……」
「置いていっては、いや…」
「早苗……」
言葉が出なくなれば、互いに腕を伸ばして、互いの体を求め続けた。
触れることで、言葉を交わした。
雨音の中、布の擦れる音が続く。
体温も、吐息も、体臭も、全て分け合い、混じり合わせて、ふたり分の別々の体と思い出さないように、境界を思い出さないように、触れ合い続けた。
時々、どちらのものかわからない涙が顔に広がるが、それもすぐに広がりきって肌に染み込んでいった。
じっとりとした梅雨の湿り気がふたりにまとわりつくが、それすら間に入れさせないように、隙間なく触れ合い続けた。
ひとつになれないから、ずっと触ることが出来るのだと稔は思いながらも、このまま早苗の中に溶け込んでしまえればいいとも思った。
早苗の吐息が雨音をも、何もかも全てを遮って、稔の耳に聴こえてくる。
そんな日々を過ごしていた。




