第百六十三話 久間木の回想 10
早苗と豊子がかつ子を探しに外へ出掛けてから、久間木は珠代を訪れた。
しょんぼりとした様子の珠代を眺めながら、久間木は考えていた。
夫も両親も子どもも亡くし、天涯孤独になった時に珠代は何をつっかい棒にして立っていたのだろうか。
仕事は出来るが、突拍子のないことを平然と為す珠代は情に厚い。一度懐に入れてしまうと、とことん構い倒す。その珠代があの時は、空っぽになっていたはずだった。
違うな。
あの時は空っぽだった所に、早苗たちが入ったのだ。
そのまま空洞であればここまで落ち込むこともなかった。
そろそろ、珠代との関わりも潮時だろう。
久間木は少ししんみりとした気持ちで、珠代に告げた。
『…もう一度、手を広げて探してみますよ。せめて、骨がどこにあるのかくらいは、見つかるはずです。』
藤村夫妻に波風を立てる役割は、珠代にはもう出来ない。池に投げ入れる石の価値すらない。
『任せてくださいな。あなたがここに遊びに来ている様子は、面白いものでしたよ。
じじいの最後のお仕事です。』
久間木以上に藤村家へ入り込んだ珠代への嫉妬が、誘拐にかこつけて排除してしまえと唆したが、結局のところ寂しさが優ったことに久間木は苦笑した。
珠代を残して玄関の戸を閉めた後、寒い冬の空を眺めた。
「…少し、雪になるかもしれませんね」
住みなれた場所の天気を読むくらい造作もない。それなのに、己の心情を正確に測ることが最近出来なくなった。
「年を、取りましたねぇ。思いがけない余生です。」
口に出す必要もない独り言を吐いてから、久間木は家に戻った。
年が明けて、正月の挨拶に訪れた稔は、珠代のくれた藍染の反物で拵えた羽織と着流し姿で現れた。
早苗と揃いの着物で並べば、さぞかし綺麗な夫婦雛になるだろう。
酒に酔いながら、そんな感慨を抱いたせいか、気がつけばかつ子に新しい雛人形を与えることを約束してしまっていた。
正月飾りも終わり、庭先の南天の赤を見ながら、久間木は稔の変化について考えていた。
近頃、離れに出入りするモデルの娘たちがいた。いずれも若く、瑞々しい美しさに溢れた娘たちだった。
その訪問のペースが早い。
むっつりとした早苗に聞けば、出版社が絡んでいるらしい。
久間木が南天の赤い実に手を伸ばす。
庭木のように、この手の内にいると思っていた稔が、急に陽のあたる方へ枝を伸ばし始めた。今までにないほど、性急に。
南天の赤い実は、鳥に食べられて減っていた。
久間木は赤い実をぽろぽろと手の中に落とすと、そのまま握りしめた。
鳥に食べられて終わるくらいならば、この手で潰してしまった方がいい。
波風の無い穏やかな気持ちで、素直にそう思った。
手筈も整い、珠代に娘の居所も教えた。
豊子は稲川と結婚をして、稲川の郷里へと引っ越す。
そして、珠代も信州の娘の所へ、引っ越す。
珠代の最後の仕事は、見事な失態であった。
珠代のうっかりした間違いで、失敗に終わった。
それを久間木と表立った交流を見せていない男たちが騒いで珠代の放逐を求めた。
その男たちは、珠代に袖にされた男たちだと前々から言われていたので、「可哀想だが仕方がない」という雰囲気で珠代は仕事先からあっさり追い出された。
「私、あの方たちに言い寄られた覚えが無いのですけれど。」
「まぁ、気付いていないのも半分くらいはあると思っていいですかねぇ。」
豊子が引っ越し前に藤村家を訪問するので、一緒に合わせて来たらいいと伝えるために久間木は珠代を呼び出していた。
川沿いにある小さな料理屋。
締め切った障子に水面がきらきらと反射して動いている。
珍しく晴れ渡った冬の日だった。
新たに話すこともなく、稲川夫妻が来る日時を伝え、後は駅で見送って終わりだった。
『久間木さんには、お世話になりましたわね。お元気で。』
駅でのあっさりとした別れは、珠代らしいと久間木は思った。
最後の餞別に、いたずらをして見送ったが、それすらも奇妙な解決をするのだろう。
珠代がいなくなった。
稔が不要な動きをしている。
庭木の実が鳥に食べられておしまいでは、面白くもない。
種を蒔こうか。
言葉の種を。




