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第百六十二話 久間木の回想 9



 柿を()いている早苗に言った言葉は、本心からだった。


『その母に、早苗さんは似ていると思ったのですよ。』


『早苗さんが良ければずっといて下さい。』


 実際に母親の写真を見せても、小さな古びたもの一枚では判断がつかないだろう。だが、久間木は違うと分かっている。それでも似ていると思うのも、また事実だった。



 そして、ずっといて欲しいということも。



 ヤミ市の頃を思い出してからの早苗はいつもぼんやりとしてた。


 その様子に早苗の戦中戦後の精神的な傷痕を久間木は感じた。


 久間木は従軍経験と戦地に何度か赴いた記憶から、稔の受けた精神的苦痛はある程度予測ができた。


 終戦になるまでに、何度か飛行機を使って大陸へ行った。一度、珠代の夫と同乗したが、話した内容やその後に大陸で見たものを人に語ることはないだろう。それに、全てを語れるとは最初から思ってもいない。


 時々、飛行機や戦地で顔を合わせたカメラマンはどうしているだろうか。


 あの男は、カメラで戦場を何百回と切り取ってきた。フィルムが消えても記憶には残り続けるとぽつりと教えてくれた。その記憶を抱えながら、沈黙を守って生きていくのだろう。


 全てを知ることが正しいとは限らない。


 知れば知るほど状況は理解できる。だが、その理解した状況に精神が耐えられるかは別だ。知らなければ正気でいられることもある。


 その選択肢で、珠代は躊躇(ためら)わずに全てを知る事を選んだ。


「そんな殿方のロマンティシズムに酔えるほど、小娘じゃありませんの。」


 まだ久間木が珠代を侮っていた頃に、艶然と微笑みながら珠代が言った時の様子を久間木はまだ覚えている。



 記憶の中の人々は皆、美しい。



 美しいと思うものだけを覚えているから、久間木は正気でいられるのかもしれない。


 これからは語れないものを見ることは無くなるだろう。

 早苗と稔への悪戯(いたずら)は、手下たちに話して笑っているくらいだ。


 これからは、隠匿する人生ではない。





 早苗と残りの柿を干し柿にしてしまってから、久間木はカメラを買いに出掛けた。

 人に見せてもいいような景色を残すのも一興かもしれないと、久間木は思った。


 久間木が買ったカメラでフィルムを一本撮り終えた頃、かつ子の誘拐が企まれていた。


「明日の午後にねぇ。」


「紙芝居でもなんでも子どもの気を惹くものは幾らでもありますから。とりあえずは一人捕まえてからかつ子ちゃんを保護します。」

「やりそうな相手が二ついても、やり口まで似てるようじゃあ、見込みが無いですねぇ。」


 久間木が煙管(キセル)に口をつけて、きゅうっと吸い込む。ため息を吐くように紫煙をくゆらせると、残念そうに首を振った。


「内閣が変わったからって、私が動く必要がないでしょう。何を末端の奴らはバタバタ動こうとしているのでしょうねぇ。」

「久間木さんの隠居自体を偽の情報だと思っているのでしょう。なんなら戻りますか?」


 太郎がにっこりと笑う。


 場所は何故かいつぞやの染物屋だ。ここの老婆が太郎の実母だったら面白いのにと、脳裏で思いながら久間木は首を横に振った。


「どちらにしても潰しましょう。消してもいいですよ。」

「それは面倒なので、ちょっと使うだけ使ってから放り投げます。」

「それならこちらでも使わせて貰いましょうかね。珠代さんをうちの敷地内から追い出します。その後に引退ということで。」


 淡々と久間木が決定事項のように口にすると、太郎が慌てた。


「え、ちょっと待って下さいよ。」

「失敗してもいい仕事を用意して下さい。人の口の根回しは私がしておきます。」

「えー、せめて来年度まで…」

「もういいんですよ。飽きましたから。」

「飽きたって、久間木さん…」

「珠代さんがここまで無事だったのは私が周りと珠代さん自身を抑えていられたからです。私の力が消えつつあるところに、占領下からの関わりがある珠代さんを野放しにしておいても(ろく)なことにならない。

 もうあの連中の相手は飽きました。」


 久間木は土間の向こうでせっせと働く染物屋の老婆の背中を眺めながら、


「幸せって何でしょうね。」


 太郎に答えを求めないような独り言を呟いた。






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― 新着の感想 ―
[一言] 飽きちゃったってwww
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