第百六十一話 久間木の回想 8
久間木は手ぬぐいの注文を済ませてから、太郎と別れて街をぶらぶらと歩き出した。
珠代の娘が見つかった。
後は、引き際を作ってやればいい。
信州ならば、田舎に引っ込める程度の失態にしなければならない。
久間木はぼんやりとしたまま、河川敷に辿り着いた。
子どもたちが凧を揚げて、転んでは走り回っていた。
風に乗って梅の香が久間木の鼻に届く。
その香りは珠代のように異質な華やかさを感じさせた。
川の匂い。
泥濘から漂う土の匂い。
遠くにまで響く子どもたちの声。
久間木は河川敷の堤の上で、じっと立ち尽くしていた。
子どもの頃の記憶はそれほど無い。
奇妙にも覚えているのは、母親と書生の並んだ姿。
早苗と稔はあの二人に似てはいない。
それなのに同じように思うのは何故だろうか。
今の久間木に分かるのは、手放したくないという欲求のみ。
鉢植えの花だろうが、夫婦雛だろうが、久間木の所有物に代わりは無い。
僥倖のような余生に、面白い玩具が手に入ったのだ。楽しむだけ楽しもう。
久間木は答えの見つからない問いに蓋をして、目下の玩具遊びの計画をつらつらと考え始めた。
久間木の立つ堤の下で、歓声をあげて走り回る子どもたちがいる。久間木はそれを眺めた後、ゆっくりと駅へと歩き出した。
桜の花見をして、暫くの間を空けてから珠代が藤村家に通ってくるようになった。
最初の内は、久間木が見込んだ通りに早苗は荒れ始めた。
襖で締め切った部屋でぼそぼそと稔と密談する上に、煽るような真似ばかりをする珠代。その珠代が来るたびに、ひっそりと早苗は怒り狂った。
その様子を見ては、池の中に投げ込んだ石に驚いて飛び跳ねる鯉を面白がる子どものように、久間木は笑っていた。だが、それもあまり長くも続かないだろうとも思っていた。
何しろあの珠代だ。
久間木の予想通りに動いても、結果はそれを斜め上に裏切る。
早苗が久間木に枝豆を貰いに来たあたりから、「ああ、そろそろ逸脱しはじめたか」と思ったものだった。
実際、豊子と共に三人で食事をしてから、訪問の目的が早苗にあることがはっきりと分かるようになった。
「かなえ」と「さなえ」が似ているのかと気が付いたのは、盆も近くなってからだった。
思ったよりも珠代を使った悪戯では、藤村夫妻の仲が荒れ狂うこともなかったので、久間木は別の悪戯をすることに決めた。
久しぶりの変装だ。
かつてのヤミ市があった所は、戦後の復興で人や物にあふれた場所に変わっていく。
そこが商いの集まりであるという共通点だけで、当時の面影は年々なくなっていく。
当時のヤミ市でそれなりに生き残った人々が店を持ち、組合を作り、真っ当で安定した商いを始めている。
その人々の中に、早苗と一緒にいた子連れの戦争未亡人が居た。
小さな商店街で、粉焼きの店を出しているのはすぐに分かった。
それならば、その女に会わせた上で悪戯をしてみよう。
急な隠居生活で、思考と体力と行動力の余った久間木の仕込みは無駄に手が込んでいた。
藤村夫妻がお使いに行った先は、羅宇屋のオヤジが一時的に借りた家だ。
粉焼き屋に近付けるために無駄なほどの準備をした。その甲斐もあって、藤村夫妻は久間木の予想した通りに動いた。
お使いの後の寄り道。
その途中での再会。
そして、ヤミ市の頃を思い出した後のあの男との遭遇。
もちろん、手ぬぐいを提げた男は、久間木の変装だ。
かつてヤミ市で見かけたあの男を暗闇の中で再現するなど、久間木にとっては容易いことだった。
その時の早苗と稔の反応と、その後の早苗の沈んだ様子を見ては、楽しそうに久間木は笑っていた。
あまりにも楽しそうに笑うので、細かい事情を知らない太郎ですら、
「無事に隠居生活に入れると、これほど陽気になれるのでしょうかねぇ。」
と羨ましがる始末だった。
久間木はそれに対して、
「太郎には分からない愉悦ですよ。」
と、さも嬉しそうに答えた。




