第百六十話 久間木の回想 7
太郎が久間木の思い通りに動いたのか。
その日以降、元大家の妻は来なくなった。
その代わりに入れ替わり立ち替わりで、稔に肖像画を依頼する女たちがやってくるようになった。
その中には後腐れの酷い女たちもいたが、早苗が全て追い払っていた。
その様子を久間木は文字通りに物陰から見ていたが、余りにも小気味良い追払い方だったので、久間木は覗くことが楽しくて仕方なかった。
稀に訪問してくる手下の羅宇屋のオヤジに、久間木は楽しそうにその様子を話した。
「あれほど真っ正面から追い払うのは、中々爽快なものでしたよ。」
含み笑いをする久間木に羅宇屋のオヤジが珍しいものを見るように言った。
「ねじ曲がった好みの久間木さんがそこまで仰るとは。長生きもしてみるもんですねぇ。」
「まあ、暇ですからね。雀に餌をやっては眺めるようなものです。」
「喩えが酷いですよ。」
オヤジは竹菅を道具箱に仕舞うと、すっかり冷めた茶をひと口飲んだ。
「…その仕事もあとどれくらいでしょうかね。」
「まあ、あんまり長くもないですよ。久間木さんの手足として動けなくなるのも、それほど遠い話ではない。」
「終戦の時より栄養状態はいいじゃないですか。」
「まあ、小麦粉だろうな黄色変米だろうが、食えれば食べますからね。ただ、ここまでの体のツケはそろそろ払わないと。」
「残念ですねぇ。何か悪戯を一緒にしてから辞めませんかねぇ。」
「あのご夫婦に何かするんですか?おやめなさいおやめなさい。久間木さんらしくもないご執心だ。」
ふるふると羅宇屋のオヤジは首を振ると、別れの挨拶をしてさっさと久間木の自室から去っていった。
久間木は羅宇屋のオヤジが去ってからも、自分で口にした悪戯という言葉について、考えを巡らせていた。
藤村夫妻が住み始めて季節が一巡し、さらに秋と冬を越えて梅の花が咲き始めた頃。
久間木はふらふらと電車に乗っては降りて、また駅から駅へと歩いていた。
真っ直ぐな道を歩いて行く。
珍しく人の通りが少ない。
すれ違う人の顔が全て分かる程度の人の流れ。
その流れの中で、久間木は急に立ち止まると回れ右をして、来た道を歩き出した。
その瞬間に体を強張らせた男を見つけた久間木は、躊躇することなくその腕を掴み、狭い路地の方に連れ込んだ。
「それで、太郎。何故こんな無駄なことをしたのですかね。年寄りだから散歩でもさせようとしたのですか。」
「まあまあ、怒らないで下さいよ。尾行された時の対処を見せて頂こうと。」
「最初から知り合いが尾行していると分かっている人間の対処なぞ、こんなものですよ。」
「やっぱり気付いてましたか。ははは。」
至極どうでもいい顔のまま、久間木は背広姿の太郎を眺めた。
「あ、やめてください。その顔。僕を消そうとしていませんか?折角久間木さんお探しの女学生を見つけたのに。」
「女学生。ならば、生きていたのですね。」
路地に連れ込み、太郎を詰問しようとした途端に近くの染物屋へ案内された。腰の曲がった老婆が茶を出すと、工場の方へと消えていった。
老婆は耳が遠いから大丈夫だという太郎の前置きに、久間木は返事もせずに板間に腰をかけた。
久間木は出された茶を啜りながら、太郎に頼んでいた珠代の娘探しについて質問した。
「それで?今は何処に?」
「嫌だなぁ、久間木さん。そこは僕の手腕を褒めて経緯を聞こうとするものではないのですかね?」
「対処は教えてありますからね。聞くまでもないです。」
「それは信用と言っていいのかどうか、判断に迷いますが…まあいいです。
信州にいました。死んだ孫娘の代わりに育てられていましたよ。」
「三月の空襲で亡くなった子どもの代わりですか?」
「そうですね。」
「そうですか。」
「他に言うことは?」
「何故、ここの染物屋に連れて来られたのでしょうか。」
「えーと、ちょっと色々あって。久間木さん、還暦祝いのお返しに手ぬぐいとかどうですか?」
「はあ?」
太郎が妙な所で珠代の影響を受けてしまっていると、この時久間木は思った。




