第百五十八話 久間木の回想 5
久間木は自室の引き出しから一枚の写真を取り出した。
写真館のような場所で、椅子に腰掛けて赤ん坊を抱いている女が写っている。白黒というよりは、茶色と白色で描かれている古びた写真だ。
その写真の女は久間木の母親だ。
抱いている子どもは弟妹の誰かだ。
母が心中で亡くなった後、父親が家にあるすべての母親の写真を燃やしてしまった。残ったのは、父親の葬式のために片付けをしていたら出てきたこの一枚の写真だけだった。
久間木はヤミ市で早苗を見かけた時は母親に似ていると思ったが、改めて見つかった写真と先ほど見た早苗を見比べてみると、それほど似てもいなかった。
これはどういうことだろうか?
久間木は写真を持ったまま、文机の上に肘をのせてぼんやりと考え込んだ。
離れの案内が終わったと敬蔵が呼びにくるまで久間木は考えをまとめようと写真を見ていた。しかし、何度見ても写真の中の母親は早苗に似ていない。それならば、この執着はなんだ?
考えのまとまらないまま、久間木が藤村夫妻の待つ座敷へと足を運ぶ。
馴れた足袋の感触すら違和感を増長させる。
一体、このざわざわする落ち着かない感覚は何だ?
久間木はにこにことした顔を貼りつけて、座敷にいる藤村夫妻の前に座った。
「お待たせしましたね。はじめまして。ここの隠居のじいさんですよ。
これからあの離れに住むそうですね。人が良さそうなご夫婦で安心しましたよ。
私や手伝いの人間が離れの裏側にある畑に居たりしますからね。どうぞ気にしないで下さいよ。」
はっはっはと笑いながら、久間木は笑い皺の奥から観察した。
夫の稔は少し長い髪だが、女に好まれそうな顔立ちをしている。大きな目に長い睫毛。鼻筋は一度も殴られたことなどないようにすっと通っている。口元もだらしがないことなどなく、全体的に均整が取れている。
少し痩せているように見えるが、引っ越し先も見つからない状況だ。肥えているはずがない。
そして、人の良さそうな久間木を見る目は早くも信用の色を含んでいる。
その隣に座る早苗も稔と同じように、好々爺を演じる久間木を好ましい年寄りだと思い始めているようだ。
切れ長の目をほんのりと緩めて、僅かにつけた紅が口元の笑みを華やかにさせている。
どうやら、初対面での印象操作はうまくいったようだった。
引っ越しの日から畑でとれた野菜を差し入れるなどして、その後も良好な関係になるように調整はした。
しかし、久間木の中に残るざわめきは、未だに名付けも分類も終わっていない。
早苗が笑い、稔に視線を向ける。
視線を貰った稔は、それに応えて目を細める。
畑仕事をしながらも目に入る二人の様子に久間木はいつも形容し難い感情を抱いていた。
そろそろ、珠代と引退前の最後の会談をする頃だ。
今まで背筋を伸ばした若い男の姿で会っていたが、藤村夫妻を見ていて気が変わった。
ーーー悪戯に使えるだろう。
珠代という女は予想を超える。その女をこの藤村夫妻に投げ入れたらどうなるだろうか。
静まった池の中に石を投げ入れるようなそんな悪戯をしてみたいと久間木は思った。そのためには、土いじりもしている隠居の爺さんの姿を見せておかねばなるまい。
久間木は本来の自分の姿のまま、日の光の中、珠代に会うことに決めた。
珠代はそれなりに驚いた反応を見せたので久間木としては満足だった。
歳を重ねると童心に戻るというが、久間木にもそういう所があるのかもしれないなと思った。
童心。
早苗と稔に対する座りの悪い感覚は、童心と関わりがあるように思えた。
そもそもが人への執着が薄いまま育った。弟妹が乳母たちに執着したあの感覚も分からないままだった。
父親が心中後の母に執着を示したのも、間諜に近い仕事をしていたのに、妻に出し抜かれて腹が立ったのかと長い間思っていたくらいだ。
あれが愛だの恋だのの執着だというのなら、醜悪なものだと思っただけだった。




