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第百五十七話 久間木の回想 4

「さなえ」とその夫の「みのる」は、引っ越しを迫られているらしい。


 大家が建物を新築し、新しい入居者には高い家賃を求めるため、この夫婦は引っ越し先を探している。


 久間木はその事情を把握すると、手下の男たちを使って、この夫婦が久間木の離れを借りたいと申し出るように細工をした。


 久間木も息子の敬蔵や嫁の寿栄子に、


「親父の亡くなった後はずっと空き家のままだったが、そろそろ誰かに貸すなりして、家の面倒を見てもらいたいですねぇ。

 男寡(おとこやもめ)の私が住んでもいいが、飯炊も億劫だし、結局は母屋にいるのと変わりがないだろうから。」


 と、至極どうでもいいような口ぶりで話しておいた。


 海千山千の久間木と違い、息子の敬蔵は素直に良家の坊っちゃんとして育った。

 息子を久間木の意で操るのは、造作もないことだった。


 水道ではない手押しのポンプに(かまど)の造りにそれほどの人気は出ないだろうが、と添えるのも忘れなかった。


 多少の不便でも家賃の安さ。


 そして、慣れない大家として店子は人柄重視で選ぶ。


 藤村稔と早苗の夫婦が久間木の家を訪れたのは、そこまでの念押しを久間木が済ませた後だった。





 離れを貸して貰いたいという人が来たと聞いて、久間木は息子に対応を任せた。取り次いだ寿栄子に印象を聞いても、悪い所は特になかった。


 久間木はあくまでも隠居の身分として店子を受け入れる姿勢を保った。


 小一時間ほど敬蔵が話をした後に、そっと久間木が呼ばれて、襖の影から二人の姿を覗いた。


「どうだい?父さん。この人たちなら貸してもいいと思ったんだけれど。

 人を見る目があるのは父さんの方だろう?意見を聞かせてくれないか。」


 久間木の耳元でこそこそと話す敬蔵の声は、そのまま頭の中を抜けていった。


 久間木は藤村夫妻の姿に見惚れていた。


 早苗の姿は知っていた。

 亡くなった母親に似ていると思った。

 だが、その対になる男が隣に並ぶことで、えも言われぬ美しさを感じた。

 身なりは質素で、特に綺麗な髪型や化粧をしているわけではない。


 言うなれば、組み合わせの美しさだ。


 畳の上に置かれた座布団に座り、大家の敬蔵が来るのを待っている。

 緊張しながらも、小一時間話した後だからか少し慣れた様子もある。その手持ち無沙汰な間に、稔が早苗に話しかけた。


 内容は分からないながらも、その声音が早苗を思いやる音に満ちていた。


 そして、それに応える早苗の笑顔。


 当たり前の珍しくもない夫婦の情景。


 それが久間木にとっては衝撃だった。




「…そうだね。悪い人たちではなさそうだ。貸しておやりなさい。」

「分かった。それじゃあ、これから離れの中を見せてくるよ。父さん、今挨拶をしていくかい?」

「これ以上緊張させても申し訳がないからね。やめておきますよ。

 その内、畑仕事をしていれば会うでしょう。」

「ああ、そうだね。畑仕事をしているのが父だと言っておこう。」


 肩の荷が下りたように、ほっとした顔で敬蔵は部屋を出ていった。

 そのまま、離れの中を見せるために藤村夫妻を連れて、座敷から出て行った。


 久間木は立ち尽くしたままだ。


 久間木は今、自分の中に一瞬で湧き上がった感情を読み解こうとしていた。


 襖の向こうの座敷にあの二人が座っていた。

 それだけが、何故か夢想をしたことのある情景を初めて目にしたような感慨に陥っていた。


 呆然としたまま、久間木は部屋を出て、自室の方へ向かった。





 子どもの頃に、母親を美しいと思ったことが何度かある。

 それは久間木やその弟妹たちと一緒の時ではなく、父親と並んだ時でもなかった。

 母親が心中する前の数ヶ月の間に、何度かあったのだ。


 あの書生と並び、笑う母親を見た時、初めて母親とは美しいものだと思った。


 滅多に家に帰らない父親と、母親の組み合わせはあまり見たことがなかった。葬式などの冠婚葬祭時に並んでいたが、美しいとは一度も思わなかった。






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― 新着の感想 ―
[一言] >葬式などの冠婚葬祭時に並んでいたが、美しいとは一度も思わなかった。 皮肉なものですね( ˘ω˘ )
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