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第百五十六話 久間木の回想 3

 見知らぬ敵であっても、戦争中に合わせた目と目は、いつまでも記憶に残る。


 飛行機に乗った敵国のパイロットの目。

 戦地の樹々の間から現れた兵士の目。

 遠距離から攻撃をしても、その死体を目の前にすれば、人は怯む。


 人は人の死体を好まない。


 それは敵だろうが、味方だろうが同じだ。


 国が人を殺せと命じる。

 その国になりかわっている人間は、死体を見ていない。


 いつでもそうだ。




 久間木は、たくさんの死体を見てきた。


 戦地でも、空襲の後でも。


 その死体の中に、久間木の心を動かすほどの何かはなかった。

 父親と妻を看取った時に、思ったことはある。これが殺されたり、焼かれたりしていたのなら、もっと感情が揺れ動いただろうか、と。


 人を殺して、精神を壊す人間はたくさん見てきた。

 それを説明されたり、脈絡のない告白を聞かせられたこともある。

 だが、久間木の心は大きく揺れ動くことはなかった。


 ああ、そういうものなのか。


 そう理解しただけだった。


 その理解も積み重ねれば、久間木自身の体験のように話をすることもできた。

 仕事の上では大変有益だった。

 それだけだ。


 まだ、珠代の方が関心を持って眺めていられる。


「さて、老いぼれの後始末はなんとか済みそうですが、珠代さんはどうしましょうかね。」

「今、久間木さんと珠代様がいなくなるのは痛手ですね。なんなら、珠代様を先に退かせて久間木さんはもう少し続けてはどうです?」


 地震と戦火を免れた大正建築の洋館の一室で、久間木はのんびりとペンを走らせて、書類を書いている。

 経年変化で色合いを増したマホガニーの机を前に座る久間木の姿は、五十の歳相応の背広姿だった。

 その脇に控えて立っているのは、太郎と呼ばれる久間木の小間使いの男。


 顔立ちは整っているが、印象は薄い。

 どこかが際立って美しいとも、醜いとも思うことのない特徴のない顔立ち。

 それを使いこなす技術を教えたのは久間木だ。


 戦後の復興が始まるこれからの日本で、この男はどんなことをするのだろうか。

 その経過を見ることも、それなりに久間木の楽しみにはなっている。

 勿論、邪魔になれば切り捨てるが、そこまでの愚行をしないだろうと思うくらいの思い入れはある。


 朝の光が白い壁の部屋を満たしている。

 マホガニーの机の端に光が当たっている。そこにだけきらきらと舞う埃が僅かに見える。

 ここに来るのもあと僅かだろう。埃が収まる前に仕事を済ませては、立ち去るこの部屋に思い入れはないが、呼ばれた人間たちには色々と記憶に残るらしい。



 感慨もなく、久間木はペンを走らせる。


「老兵はただ去るのみ、と言っておきましょうかね。

 珠代さんは、私の力が消え去る前になんとかしましょう。根回しは頼みましたよ、太郎。」

「ああ、太郎と呼ぶのも久間木さんだけになりました。寂しくなりますね。」


 微塵も寂しさを感じさせない声色で太郎が答えた。



 久間木は書類仕事を終わらせると、後は太郎に任せて洋館を出た。

 隠居生活に入る前に、手元で使っていた人間たちの身の振りを聞いて回ることにしていた。


 ほとんどは、久間木と同じような年だ。

 おそらく隠居生活に入るだろう。

 時々は訪ね合うくらいの付き合いで終わるのか、それすらも面倒になるのか。


 そんなことをつらつらと考えて歩いていると、戦火を免れた住宅地に入っていた。抜け道として使う道だったが、この時久間木は咄嗟(とっさ)に身を隠した。


 舗装もされていない街並みに、とぼとぼと歩く女がいた。


「さなえ」だ。


 久間木は家を探すように周りを眺めてから、「さなえ」の後ろをついて行った。

 子どもの泣き声に、ペンキ屋の塗料の匂い。

 描きかけの看板がひとつ、ふたつ。

 その奥に進んだ「さなえ」の声が聞こえたてきた。


「稔さん、引っ越し先は見つからなかったわ。」

「そうか…。二人だけとはいえ、絵を描く場所も必要になるから、どうしても家族持ちの人たちと重なるからね。」

「子どものいない方が、綺麗に使うのに。」

「絵描きの方が汚すと思われるのかもしれないね、早苗。」


 ふふふと笑う男の声が聞こえた。


 久間木は物影に身を潜ませながら、じっと二人の会話に耳をそばだてていた。





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― 新着の感想 ―
[一言] >人は人の死体を好まない。 >それは敵だろうが、味方だろうが同じだ。 確かに( ˘ω˘ )
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