第百五十五話 久間木の回想 2
珠代は久間木の見込み通りの女だった。
むしろ、予想以上に聡明な女だった。
いつでも使い捨てにするつもりで手元に置いていたが、存外に替えの効かない人材となってからは、いつ頃になったらこの世界から切り離すかを久間木の中で算段するようになっていた。
珠代には後ろ盾も何もない。
本当にただの身ひとつで立って生きている。
最初は戯れで手折ってしまおうと思っていた野の花が、思いがけずに丈夫で芯のある花だったので、そのまま朽ちさせてやりたいと思う気持ちに似ている。
久間木が人に関心を持つことはあまりない。
稀にあっても、それは珠代のように植物の美しさを惜しむ気持ちに似ている。
母親が情夫と心中をするような人間だったからかもしれない。
久間木にとって、与えられる愛情というものは、曖昧模糊としている。それなら鉢植えに種を蒔いて育てた花の方が情愛が湧く。
時々、珠代のような野趣も愛でるが、それでも五十年生きていて数人ほどだった。
形ばかりの妻も、同じようなものだった。
いや、むしろ、植物並みの情愛が湧いただけよかったのかもしれない。
人への執着は薄い。
久間木自身、そう思っていた。
しかし。
ある日ヤミ市で、ひとりの女を見た。
その女は薄汚れたモンペ姿で、髪を引っ詰めているだけの小柄な女だった。
歳の頃は、二十歳ほどに見えたが、小柄で少し幼く見えていると久間木は判断して、二十をふたつか、みっつ、越えている女だと判断した。
その女は、亡くなった母親によく似ていた。
ごちゃごちゃとしたヤミ市の中で、そこだけがぽっかりとひらけて見えたのは、久間木の目の錯覚だろう。
ただ、その女に目を奪われただけだった。
その日はただ通り過ぎたが、繁忙を極める仕事の合間を縫っては、久間木はその女を見るためだけに、ヤミ市へ通った。
政治の動く久間木の仕事場とは、近くもないのに、そのヤミ市に足繁く通った。
時々、手ぬぐいをぶら下げた男と歩いているのを見かけた。
気になった久間木は、その様子を全て見ていた。
小柄な女が、男の上に乗っては、首を絞めている。
異常な光景だったが、その頃は何が正常であるのか誰もが見失う時代だった。その上、久間木のような人間にとっては、異常だろうが正常だろうが大差はない。
目の前で起きた事を事実として受け止めて、行動を選ぶ。それだけだ。
その久間木が選んだ行動は、ただ傍観することだった。
確かに母親に似た女に興味は持った。しかし、それ以上に何かをするほどの執着は湧かなかった。
手ぬぐいをぶら下げた男が、時々その女を「さなえ」と呼ぶのを聞いて、そういう名前かと思った程度だった。
久間木が「さなえ」を眺めに行くのも、"今の時期ならばこの辺りに咲いている花を見に行っている"感覚に過ぎなかった。
薄汚れ、疲弊したヤミ市に咲く一輪の花を眺めに行く久間木の習慣は、案外長く続いた。
自分でも珍しいことだと思っていたが、ある日から突然「さなえ」の姿を見なくなった。
そういうものかと最初から思っていたので、それきりヤミ市へ行かなくなった。
「さなえ」のことも忘れ、父親を看取り、妻も看取った頃。
日本の講和条約が調印された。
久間木は自分にとって、ひとつの区切りを感じた。ここまでこの国と付き合えばもういいだろうという感傷も何もない理由だった。
終戦後の混乱期にあったGHQへの恐怖感は、今では別れの名残を惜しむまでに変わる。日本人は馴染んでしまえばそこに親愛の情が生じるのか、支配されることへの安心感があるのか、パイプを咥えた男が日本を離れる時の狂騒を見て、久間木はつくづく日本は戦争などに向いていないと思った。
情があるから、身近な人間なら親愛を抱く。理屈より情を重んじるから、海を挟んだ遠い国の人間たちとの理性的なやり取りを酷薄に感じる。
戦争なぞ、どこの国で誰と起きようが同じだ。
戦争は戦争だ。
見知らぬ人間なら全て殺せると、海を越えた兵士が、人が死んでいく様に耐えられなくなる。
それだけだ。




