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第百五十三話 珠代の回想 8

「焼きまんじゅう…?」

「信州名物らしいですよ。持ち帰ってきたものを炙り直して食べましたが、良かったですよ。今度、食べてみて下さい。」


 もぐもぐと咀嚼(そしゃく)を続ける久間木を珠代が見つめる。


「焼きまんじゅうって、何処の食べ物です?」

「ああ、あなたは東京から出たことがありませんでしたね。

 信州の食べ物ですよ。

 そこにあなたの娘さんがいますよ。」


 久間木があんみつの器に匙を置いて、珠代と目を合わせて告げた。


「珠代さん。あなたの娘、かなえさんは、"玉世(たまよ)"という娘の代わりに信州で育てられています。」


 久間木の年を経た(しわ)に囲まれた目を珠代は正面から惚けたように見つめた。


 今、この男は何と言った?


 かなえが、生きている?


 再びあんみつを食べ始めた久間木は、ゆっくりと食べながら、ゆっくりと話した。





 空襲の後に川から引き上げられた子どもが身元不明でいたところ、水筒の名前で信州から孫を探しに来ていた老夫婦が自分の孫だと言って連れ帰ったこと。

 重篤な子どもの看病をし続けて、すっかり情が移ってしまい、親の見つからない孤児にしてしまうならば、亡くなった孫の代わりに育てることにしたこと。


 久間木が珠代に説明を続ける間、珠代の匙は動きを止めて、ずっと話に聞き入っていた。


「子どもを母親が探していることは伝えました。

 戸籍をすり替えてしまったことは良くないですが、他所でも似たようなことはたくさんあります。

 焼け跡にいたら、とにかくその後を生き延びること。

 それだけが、最重要事項ですからね。」


 久間木はあんみつを食べ終わり、冷めたお茶を啜った。

 店員に温かいお茶を頼んでから、久間木が珠代に言った。


「まとめると、あなたは仕事と東京での繋がりを失って、信州という田舎に追い払われる。それだけです。」




 久間木が一枚の紙を珠代の方へ置くと、会計を済ませて店を出て行った。

 珠代が身動き出来ずに椅子に腰掛けたままでいると、店員の女性が、


「お連れのお客様が、汁粉をご注文されていきましたよ。」


と、言って箸と一緒に、ほかほかと湯気のこぼれる汁粉の椀をひとつ置いた。


 珠代は作り笑いを浮かべることも出来ず、ただ頷くと、汁粉の椀と箸を持ち、黙って食べ始めた。


 かなえが生きている。

 十年近く前に、死んだと思ったかなえが、生きている。


 珠代はひたすらに食べた。

 温かい餡子(あんこ)と餅を食べ、あんみつも残さず食べた。

 先ほどの店員が気を利かせて、茶を珠代に出してくれた。


 珠代は熱い湯呑みを両手で包み、ゆっくりと茶を啜った。

 鼻から抜ける香りに、ほっと息をつかせられる。


「……かなえが、生きていたのね。」


 早苗に与えられた喜びの小さな芽は、今、珠代の中で大きな幹を持ち、育ち始めた。






 それからの珠代の動きは、久間木の予想を超えるものだったらしい。


 紙に書かれた住所を調べ、売りに出ている物件を探し、手持ちの不動産はすべて売却。

 久間木が手を回した仕事を失敗させるために、入念に準備し、取り返しのつかない結果を出した。

 その合間に豊子と稲川の動向も調べ、引っ越しの準備をしていると知ると、久間木に藤村家へ訪問する許可をもぎ取った。


 そして、最後の最後に、



間諜(スパイ)ですわ。』



 早苗に久間木との関係は言わないながらも、仕事内容を暴露していった。


 久間木は後になって珠代から話を聞いた時には、驚いて口を開けたまま固まってしまった。


 駅のホームには、見送りの人々に紛れて、珠代と久間木が立ち話をしている。


「どうしてそんな益体もないことを…」

「ふふふ、久間木さんを驚かせたかっただけですわ。」


 珠代は苦笑しながらも、餞別をくれた久間木に御礼を言った。


「自分の写真なんて、十年振りですわね。

 肖像画もいただいて構いませんの?」


「一応、あなたが依頼して描いたものですからね。手元に残して置いてあげて下さい。

 それと、手紙は差出人を書かずに、私宛に寄越せば、早苗さんたちに渡しますよ。」

「久間木さんの知人から届いた、ということですわね。分かりましたわ。

 落ち着いた頃に、連絡を。」


 どうせその中身を確認しなければ早苗に届けないのだろうと、珠代は呆れたように言った。


「ずいぶんと早苗さんと藤村先生を大事にされますのね。妬けますわ。」

「はっはっは。母に似た人に弱いのは、誰しも一緒でしょう。」


 本当にそれだけだろうか。


 珠代の推察が出来る範疇(はんちゅう)に収まらない人物が、久間木だと分かっている。

 だが、それ以上の詮索はそれこそ益体のない害あるものにしかならない。


 だから、ここが引き際なのだ。


「久間木さんには、お世話になりましたわね。お元気で。」


 珠代は大輪の花のような優雅な笑みを浮かべると、すっと頭を綺麗に下げて干し柿を入れた鞄一つを持って、久間木の前から立ち去った。


 駅のホームでは、乗客と見送りの客ががやがやと声として聞こえない音を振り撒いている。




 久間木は近くにいた駅弁売りに声を掛けると、


「あの女の客が見えますか?そう、その窓際に座った。

 あの客に弁当を十個渡してやってください。

 お代はここに。要らないと言っても押し付けてください。年寄りに恥をかかせないで下さいと言えば受け取りますから。

 え?いやいや、はっはっは。

 ほんの些細な仕返しですよ。

 最後に驚かされたのが私の方というのが癪に触るのでね。

 大丈夫、あの人は食べ物を粗末にする人じゃありません。」


 そう言って、久間木は駅弁売りに笑いかけて紙幣を渡すと、ゆっくりとそこを立ち去って行った。






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[一言] 久間木さんカッケェ( ˘ω˘ )
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