第百五十二話 珠代の回想 7
『もしかして、かつ子ちゃんが迷子になった事に、責任があると思ってませんか?』
花も葉も落ち切った桜の木の下で、久間木との会話を聴いていたような早苗のセリフに、珠代は一瞬息を呑んだ、
『…そんなことは、ありませんわ。…違いますわ。』
早苗には、珠代と久間木の関わりは隠したままのはずだ。
それを知らないで言ったのなら、早苗の勘が良いとしか言いようがない。
それとも、珠代を見て何かを読み取れるほどの観察が出来るのか?
そこまでの早苗からの執着に、珠代は嬉しくなって笑ってしまった。
娘ではないけれど、娘のようなこの女に、珠代はまだ人を愛する気持ちが生まれることを教えて貰った。
もう二度と会うことがなくても、その気持ちを与えて貰えただけで、珠代は生きていけると思えた。
じわりと、立ち去る早苗の背中が滲む。
子どもが母親としての愛を教えてくれるものならば、早苗のような女は何と言えばいいのだろう。
陽も当たらない曇り空の下で、珠代は焼け尽くした東京の景色の中に、小さくとも僅かでも、確かに若葉のような柔らかい緑の色を見つけたように感じた。
心の中に新しい息吹を早苗から貰った。
その小さな芽を大切に育てよう。
それが心の中にあれば、きっと珠代はもう暗闇の中に独りだと思わないだろう。
「この仕事から身を引くことが出来た時は、田舎で畑でもすることにしますわ…」
”早苗"の名前を忘れないように。
常にそばにいて、失くさないように。
焼け跡の中にも、新しい芽は、出る。
珠代が藤村家への来訪を止めて、二ヶ月も経った立春の頃。
珠代は久間木から呼び出された。
場所は浅草の浅草寺。
仲見世通りから少し裏に入った甘味処で、久間木はのんびりと煙管を口にしていた。
珠代が向かいの席につくと、久間木は店員を呼んであんみつを二つ頼んだ。
「立春なら祝いの日ですからね。餡子でも食べましょう。」
「それならお汁粉の方が良かったのではないかしら。」
「入れ歯になってみれば分かりますよ。家でなければ汁粉の餅などのんびりと食べていられません。」
「ふふふ。ずいぶんとお年寄りになられましたのね。」
「もともと年寄りですよ。珠代さんより年若い男はもう居ません。」
午後の長閑な時間に、女たちはおしゃべりをしながら、甘い汁粉を食べている。
久間木が煙管を仕舞うと、珠代は居住まいを正した。
「久間木さん。それで、何のお話かしら。」
久間木が溜め息をついた。
「つくづく珠代さんの亡くなった御主人に会ってみたかったと思いますよ。こんな奥方をどうやって御していたのか。」
「あら、それは惚れた弱味ですわ。私にとって主人だけが特別でしたもの。」
「寡婦になってもここまで惚気るとは。あんみつも要らないくらいですね。
……まあ、話は二つです。
一つは、珠代さん、あなたには仕事を失敗してもらいます。それで私や、私に関与している何人かから怒りを買って貰います。」
「それで、命は残してやるが消えろ、と。」
「まあ、そんな筋書きですかね。露見した所でこんな茶番を見つけるくらいの人なら、見逃すだけの余裕はありますからね。」
「ご配慮、痛み入りますわ。」
珠代は軽く久間木に頭を下げた。
ちょうどあんみつが運ばれて来たので、「お変わりもなく安心しましたわ。」 「まあ、ここに来るくらいには元気ですよ。はっはっは。」と適当な会話を流した。
店員が去ってから、久間木と珠代はゆっくりと食べながら、会話を続けた。
珠代の匙には黒蜜のかかった寒天。
冷えた白玉を早苗と豊子と一緒に食べたのは、夏の日だったか。
感傷に陥りそうになった珠代は、黒蜜のかかった寒天をゆっくりと味わった。
つるりとした寒天を噛むと、黒蜜が一緒に口の中に広がる。
落ち着いた甘さに珠代は少しだけ、安心する。
向かいの久間木を見れば、甘く煮たえんどう豆を口に運んでいる。
「……久間木さんも、甘いものを食べられるのですね。」
花見の時はみたらし団子だった。
甘いものではあるが、久間木が甘いものを好む印象が珠代にはなかった。
「まあ、焼きまんじゅうの方が好みですかねぇ。」
もぐもぐと口を動かしながら、久間木が言った。




