第百五十一話 珠代の回想 6
「ただ、何故、かつ子を拐かそうとしたのかは、分かっていません。
私が原因なのか、珠代さんから起因しているのか。」
淡々と話す久間木の声を聞いて、珠代は悟った。
「…もう、ここへ来てはいけないのですね。」
「まあ、そうした方が無難でしょうね。
かつ子の誘拐に失敗したら、次に狙うのは寿栄子か、早苗さんでしょうから。」
「ええ。そうでしょうね。」
他愛のない穏やかな日常など、自分には過分のものだった。
諦めるしかないだろう。
「なんだか、こんなに寂しい気持ちになるなんて、変ですわね。ふふふ。」
珠代は手持ち無沙汰に、湯呑み茶碗を取ると、手の中でくるくると回転させた。
どんな時も笑みを浮かべて、相手を煙に巻く珠代が、珍しくしょんぼりと落ち込んだ様子を見せた。
久間木は煙管の火皿の方をぽんぽんと左手の甲に打ちつけていたが、動きを止めると大きく息を吐いた。
「…もう一度、手を広げて探してみますよ。せめて、骨がどこにあるのかくらいは、見つかるはずです。」
珠代がぼんやりとした顔で久間木を見た。
久間木は苦笑すると、珠代に煙管の先を向けて言った。
「あなたの娘のかなえさんのことですよ。せめて、どこに骨があるか分かれば、手を合わせることくらいできましょう。
かつ子と同じくらいの女の子を亡くした辛さを今更ながら知りました。
本当は、生きていてくれるのが一番ですが、そんなことを思った親は沢山居たのでしょうね。」
珠代は咄嗟に返す言葉が出なかった。
ようやく口から出たのは、
「かなえをご存知でしたのね。女の秘密を暴くなんて無粋ですわ。」
と悪態としても中途半端なセリフだった。
これでは動揺を隠しきれていないと、珠代は言った先から笑ってしまった。
「ふふふ。久間木さんにはお見通しですわね。あの頃から私を追いかけていましたもの。」
「追いかけていたとは語弊がありますね。よく調べてからでなければ、仕事を依頼したりしませんよ。」
「あら、そんなに思われていたなんて。恥ずかしいわ。」
くだらないことを言って、感傷に陥っているのを誤魔化そうとする珠代に、久間木が噛んで含めるように、ゆっくりと話しかけた。
「珠代さん、あなたも一人で疲れたでしょう。
終戦からもうすぐ十年です。
あなたはよく働いてくれました。
すべてを知っても尚、歯車の一つとして逸脱することがない。
もう、充分です。
あなたをこの仕事から解放できるように、手を回してみます。」
「…久間木さん?」
「急な話で驚いているでしょうが、あなたに今の姿を見せた時から動いてはいたのですよ。
かつ子の誘拐を企んだ奴らがどこまであなたに関係しているか分かりません。
私が許可を出すまで、ここには来ないように。」
慈愛に満ちた目で、久間木は珠代を見て、ひとつ頷いた。
「任せてくださいな。あなたがここに遊びに来ている様子は、面白いものでしたよ。
じじいの最後のお仕事です。」
珠代は胸の奥に息が詰まったように、黙った。
恐ろしい存在だと思っていた久間木が、隠遁後も珠代と関わりを持っていたのは、それなりの愛着があったのだと、急に理解した。それを受け入れてしまえば、泣いてしまう。
夫の戦死広報を受け取り、両親を目の前で亡くし、一緒に川に逃げた息子も亡くした。
娘は遺体すら、見つけられなかった。
それからずっと一人だった。
珠代が死んでも、弔う人は居ない。
それも仕方がないことだと、そう思って生きていた。
人との情のある関わりなど、求める気も無かった。
それがこの一年で、早苗に豊子に、久間木と、珠代にとっては望外過ぎる関わりが出来た。
誰も傷つけたくない。
誰も死なせたくない。
ならば、久間木に早苗たちを頼もう。
守れるだけの力を持っている。
珠代は黙って頭を下げると、
「お願いします。
私のことも、早苗さんたちのことも。」
顔を伏せたまま、久間木に頼んだ。
久間木は黙って頷くと、部屋から出てそのまま玄関の戸を開けた。
開けた玄関から風が入ったのか、障子が小さく音を立てたが、珠代は俯いたきり、動かなかった。




