第百四十九話 珠代の回想4
眩い洋館の部屋で、老人の久間木と会った日から、およそ二年。
特に連絡もないままに、時は流れた。
珠代は、まるで蜘蛛の巣に張り付いた虫のような、自分の身の上について考えるようになった。
自分よりも、しがらみや泥のように染み付いた関係の事柄が多いはずの久間木が、あっさりと隠遁生活へ入れた。
それは、ともすれば珠代もこの仕事から足を抜けられるのではないかとの期待を持たせた。
しかし、久間木が言った通り、この生活から抜け出た時に生きていられるかどうかは保証がない。
抜け出せたと思った瞬間に息を止められる可能性の方が高い。
「……なんだか、疲れてしまいましたわ。」
敗戦国日本の戦争がようやく終わった講和条約発効の日。
日米安全保障条約も発効した。
国際間でも日本の再軍備は恐れられていた。
自分の国を守るための軍備すら、諸外国にとって警戒される国。それが珠代が心血注いで関わってきた国だ。
ようやく日本が国として独立しても、アメリカに阿るような態度ばかり。
軍備出来ないからと安全保障条約でアメリカに擦り寄り、米軍基地のためにたくさんの国土を差し上げた。
そして、今度は日米相互防衛援助協定。
相互で防衛。
占領下が終わり、たかたが二年ほどで、同じ国として相互防衛出来るだけの力があるわけがない。
アメリカで余った小麦が日本に流れてくる。
日本の防衛を増やすために、保安庁が防衛庁になり、保安隊が自衛隊になる。
まだ国際間での日本はもがいている。
だが、珠代から見ると泳げないままに大河に投げ込まれて溺れているように見える。
それを知りながらも、珠代にはなんの権限も無い。
ただ、見て、知っているだけだ。
知ることを放棄せずに、生きることを選んだのは珠代自身だ。
それでも独り生き続けることに苦しさを感じる。
「いっそ、全て終わらせるのも、いいのかもしれませんわね…」
珠代がそんなことを考え始めた頃、桜が満開だから花見をしようと、久間木から誘いが届いた。
晴れ渡った青空の下。
満開の桜が、ほこほこと頭上で咲く。
花見団子の折り詰めを片手に、珠代は久間木とぼんやりと桜を眺める。
花見客と観光客が入り混じった人混みの隅に、久間木が用意した茣蓙の上に座っている。
「随分、久し振りに呼ばれたと思えば、花見とは予想外でしたわ。」
みたらしの団子を口に含み、珠代がゆったりと話しかけた。
作りたての団子はまだ温かく、ほんのりとした甘さにみたらしの甘じょっぱいタレが重なり、思わず頬が緩む。
久間木は煙管を吸い、ふうっと煙を吐くと、団子をひとつ食べた。
「珠代さんに予想外と思わせるのも一苦労ですね。」
「あら、私が予想出来ることなんて、ほんの僅かですわ。現に、何故呼び出されたのか、全く存じ上げませんもの。」
「はっはっは。確かにそうですな。」
日の光の下で見る久間木は、どうみても還暦の老人だった。
何故ずっと珠代より若い男だと思っていたのか、今となっては分からない。
それが久間木が生き抜いてきた業なのだろう。
珠代には無い配下も、何人か持っていたはずだ。
今はすべての仕事から手を引いているのだろうか。
並んで桜を眺めて団子を食べていても、久間木という男はつくづく捉えようの無い人物だ。
「それで?なんの御用かしら?」
空になった折り詰めを片付けながら、珠代が久間木に訊いた。
久間木は、新しく詰めた煙管をぷかりとやってから、答えた。
「珠代さん、私の店子に肖像画を依頼して下さい。」




