第百四十八話 珠代の回想3
久間木は年寄りじみた縞の着物姿で、窓辺に立ったまま、珠代を招き入れた。
戦火を免れた、大正時代に建築された洋館の一室は、白塗りの天井を朝日に照らされ、やけに眩く見えた。
思えば久間木に呼び出されるのはいつも日暮れ時以降の時間帯だった。
それが早朝の呼び出し。
何かがぞわりと珠代の神経をなぶった。
人に踏み慣らされた洋間の絨毯は、少しだけ土が残っていた。
それは誰かが暴れた跡のように見えた。
今の珠代の服装は、ふくらはぎより下まであるスカートの上下揃いのスーツ。足元は少し高めのヒールだった。
多少の護身術は身につけていたが、この状態で久間木に力では勝てない。珠代はあっさりと、殺される可能性のある状況として受け入れた。
だが、そこは珠代だ。
どこまでも、人を食ったような態度は最後まで保つと決めていた。
珠代はにっこりと、美しく笑いかけた。
「ごきげんよう。久間木さん。
爽やかな朝ですわね。そろそろ私も用済みかしら。」
ふふふと珠代がパーマをあてた黒髪を揺らす。
久間木は珠代から見て逆光になる窓際から動かずに、答えた。
「まぁ、ごきげんと言えますかね。
用済みにしてもらったのは、私の方です。これからは別の方から指示を貰って下さい。」
珠代は拍子抜けした。
この男がこの仕事から抜ける?
何か違和感が残った。
それが珠代の顔に出ていたのか、久間木が聡いのか。
久間木はくつくつと肩を震わせて笑った。
「不思議そうな顔をしていますねぇ。
こう見えても私はあと少しで還暦なんですよ。
服装と姿勢で若く見えるようにしていますが、ほら、顔をとれば、この通り。」
久間木はおもむろに自分の顔に手をかけると、火傷の痕を皮膚ごと剥がし始めた。
「ひっ!」
珠代が咄嗟に悲鳴を呑み込み、半歩後ずさった。
背中から朝日を浴びた久間木が動くと、小さな埃が反射してきらきらと飛ぶ。
その中心に、剥がれた皮膚を持つ老人が立っていた。
逆光の中、歯の無い久間木が笑った。
「はっはっは。これはただの変装道具です。
さすがの私でも歳を取れば、目元や口元、首に年齢は出ます。それを誤魔化すためと、私の年齢を決定づけて見せるためですよ。
入れ歯でも印象は変わりますからね。」
悪戯が成功した子どものように、嬉々として説明をする久間木を見て、珠代はずっと感じていた歪みの正体を知った。
年齢が合ってなかったのだ。
珠代より若い年齢だと思っていたが、ずっと違和感が拭えなかった。
戦争が人の年齢を変えることはよくあると思い込んでいた。
だが、この男は最初から歳を取っていたのだ。
それに気が付かなかった珠代は自分の迂闊さを呪ったが、ここまで気付かせなかった久間木に対して、新たな恐怖と気味の悪さを感じた。
その感情も顔には出さないようにしていたが、久間木の方が珠代よりも数段上だった。
久間木は珠代の嫌がる顔を見ては嬉しそうに破顔した。
「はっはっは。気味が悪いですか。
まあ、そうでしょうね。
私も真っ当な年寄りとして、年相応の余生を生きようと思います。まだ多少の繋がりは残ったままでしょうが、いずれ消えるでしょう。」
そう言いながら、久間木はじわりじわりと背を丸めて、にっこりと笑った。
それはどこにでもいる好々爺に見えた。
珠代は震える足を見せまいと、ゆっくりと、一歩一歩、久間木に近付いた。
「この種明かしをした理由を伺っても?」
妖艶な笑みに見えるよう、精一杯の虚勢を張る。
僅かに、口元が震える。
その珠代を下から見上げるようにして、久間木がにっこりと笑った。
「何も無いですが、あなたには情報提供の取引が残っていますからね。
その繋ぎの為ですよ。
後は、そうですねぇ。珠代さん、あなたはまだ使えそうだから。」
「逃げることは無いとお思いなのかしら?」
「ふっふっ、まさか。逃げられると思っているんですか?
あなたは、必要以上に知りすぎている。
無事に生きて、身を引けるようになるか、それすらも危うい。
これからの私の暇つぶしで、あなたが死ぬことなく身を処せるように、工面してあげましょう。」
暇つぶし。
珠代の命すら、久間木にとっては手遊びの鞠のようだった。
美しく、面白いものではあるが、所詮は替えの利く存在。
それでもこの男が言えば、それは取引と同じだけの効力が生まれる。
珠代は精一杯の笑みを顔に浮かべると、優美にお辞儀をして、言った。
「ええ。よろしくお願いいたしますわ。
久間木翁。」




