第百四十七話 珠代の回想 2
久間木と名乗る若い男は、本来ならば日本人の入れないGHQのオフリミットの中に居た。
珠代が遺品を回収した後。
「軍服は要りません。その布だけを渡して下さい。その代わり、貴女の命を守りますよ。」
見知らぬ男が珠代の家にやって来て、伝言を残していった。
珠代は夫の謎の行動について何かを知っている人間がいると判断した。そこで、伝言の男を交渉相手にして、直接会わなければ渡さないという条件を呑ませた。
その交渉力と今までの珠代の動きに興味を持ったのが、珠代の前に、布の受け渡し相手として現れた久間木と名乗る若い男だった。
男は軍服ではない、三揃いの背広姿で帽子を被り、ステッキを持って立っていた。
場所は銀座。
GHQに接収された建物の中にある一室。
まだ敗戦国である日本への対応が始まったばかりの頃だ。
薄暗い裸電球がひとつだけの窓のない部屋。
そこに連れてこられた珠代は、日本人の居ないオフリミットの中に関わらず、のんびりとした様子の久間木に違和感と恐怖感を抱いた。
目元から下に広がる火傷の痕。
笑みを浮かべる度に、ひきつれた口元が歪む。
傷痍軍人とは違う。
何か、この男は、歪んでいる。
珠代は平静を保ったふりをして、布を渡す条件を示した。
夫の殺された理由とその犯人。
空襲で親と子を亡くした珠代が、唯一関心の残る事は、それだけだった。
その捨て身の態度を見て、久間木は愉快そうに笑った。
「いいですよ。理由は分かりますが、犯人は分かりません。今後、教えられることがあれば、情報を提供しましょう」
珠代はあっさりと理由を告げる久間木に再び警戒心を抱いた。だが、もう取引をしてしまった。引き返すことは出来ないと、腹を括った。
その情報提供が十年近く経っても続くとは、さずかの珠代も予想外だったが。
未だに珠代は、久間木という男を把握しきれていない。
そんな得体の知れない男と取引をしてしまった珠代は、間諜を生業にするようになった。
久間木からの指示を何度か受け、その結果を報告した何度目かの時。珠代は世間話のように久間木に尋ねた。
「もし、あの時、私が布の受け渡しを拒んだら、どうなさるおつもりでした?」
「そうですね。RAAに送ったと思います。」
占領下の米軍人相手の慰安婦施設。
珠代はこの男ならば、顔色ひとつ変えずに実行しただろうと、妙に納得した。
結局、殺された理由は珠代の夫が軍の横流しをして蓄えた金塊だった。
ただ、夫がどうしてそのような事を始めたのか、そして、軍から突然狙われ出したのか、それは久間木にも分からないことだった。
その金塊を日本の建て直しに使う。
それだけは、久間木から教えられていた。
占領下の日本で、オフリミットに入りながら日本の為に金塊を探していた久間木。
愛国者とは言い切れない久間木の考えに、珠代は探りを入れる事はなかった。
探るまでもなく、知ったところで珠代の手の及ぶ事柄ではない上に、直感で踏み込んではいけないことくらい嫌でも分かった。
終戦後の一年ほどでオフリミットでの密談は終わり、その後は毎回違うどこかの立派な家屋の一室でやり取りをするようになった。
珠代は久間木から下される指示に従って動いた。その指示の理由は一切教えられてはいない。
しかし、珠代は指示された内容とその結果から、何の為にこの指示が出たのか、誰から出されたのか、この結果をどう使うつもりなのか、ある程度の予想が出来た。
その予想が当たったとしても、珠代には何も出来なかった。
衣食住に困窮する人々を車窓から見ながら、音楽に、踊りに、女に興じる一部の男たち。
その男たちを点にして広がる日本の勢力図。
時々吐き気を覚えながら、珠代は知る事だけは捨てなかった。
全てを見て、上官に教える。
しがない歩哨兵のように、国の為、人の為だと言い聞かせながら、黙々と仕事をこなした。
そして、講和条約が発効し、ひと月ほど経った頃。
珠代はある洋館の一室へ、久間木に呼び出された。




