第百四十六話 珠代の回想 1
田舎に不似合いな女がひとり、縁側に立っている。
開け放った縁側からは、雨に濡れた田んぼの向こう側まで遮るものがなく、日本画の岩絵の具で描かれたような淡い森が見えている。
「本当に雨が続いて嫌ですわね。」
薄化粧の珠代が、軽く一つにまとめた髪に手をあてながら嘆息する。
「明日は梅雨の中休みで晴れだって。
ねぇ、お母さん、街に買い物に行こうよ。」
縁側に座る珠代が振り返って、畳の上に寝そべって新聞を読むかなえを見つめた。
「だめよ。あなたのお勉強を見ますから、出掛けられません。」
珠代が毅然とした態度で断った。
「だってー。いっつもお母さん、長靴にモンペ姿なんだもん。
たまにはおしゃれしてさー、一緒に出掛けようよ。」
畳の上をごろごろと転がるかなえは、鼻にかかった声で甘えるように珠代に言った。
今の珠代が住む家は、戦前は大地主の家だったため、黒く太い梁がどっしりとある立派な家屋だ。
珠代としてはかなえの近くであれば構わないと家の購入を決めた。
しかし、多くの農地を失い、金策に走りながらも立派すぎる家屋が売れずに困っていた売主からは、大枚を即金で払った珠代に大袈裟なほどに強く謝意を示した。
田舎の人間は急に越してきた金持ちに警戒心を抱く。
しかし、珠代はそれに構う事なく、かなえの家と行き来をしながら、土にまみれて農作業に入り、事業を興し始めた。
『なんだかよくわからないが、すごい美人後家さん』
それが住み始めて三ヶ月の経った珠代への周囲への評価だった。
すごいが美人に掛かっているだけではないのは誰もが知っている。
酒の席で絡んだ男たちが、気付けば事業を始めるための手伝いをすることになっている。
女たちが遠巻きに見ていれば、珠代は勝手に近付いて行って、田舎の女たちが初めて見るような化粧水を勧めては、勝手に顔に塗り始めている。
何もかもが予想外の後家さんだった。
そのうち、"玉世"という娘の実母であるという話が流れ始めた。
焼け跡で別れ別れになった母と娘。
娘を亡くした女親がそれを憐れんで、自分の娘代わりに育て始めた。
あくまでも噂の程度で、しかし、悲しくも美しい物語に飢えた人々の中に、真実であるかのようにじわじわと侵蝕していった。
すべて珠代の情報操作によるものだった。
珠代が間諜となったのは、終戦の後、すぐ。
空襲の後から来訪する軍人たち。
かなえを探し歩きながら、珠代は軍を相手に隠蔽を始めた。
のらりくらりとかわしながら、珠代は夫が遺した物と場所が何なのか、見当はついていた。
殺されるならそれでも構わない。
夫も子どもも親も居ない。
天涯孤独の身で、夫を殺した軍にひと泡ふかせれば、それでいい。
珠代が口先だけで詮索を躱していると、急に誰も来なくなった。
ポツダム宣言の受諾。
終戦。
今まで威張り腐っていた軍人たちが、一斉に保身に走った。
珠代に関わっている余裕が消えたのだ。
GHQが来るまでの二週間。
混乱の中の静けさに、珠代はいた。
その静けさを破らないように、珠代は夫の遺した物を回収した。
戦勝祈願として稲荷神社に供えた夫の軍服。
戦死広報を見せ、これが唯一の遺品だと泣いて返却を頼んだ。
その遺品の軍服についた純金のボタン。
縫い込まれた布に書かれた文字。
生前の夫が何故、そんなものを神社に納めろと言ったのか、説明は無かった。
ただ、違和感だけが残ったのと、家に来る軍人たちが執拗に珠代の周辺をかぎまわったこと。
それだけを手がかりに、珠代は夫の遺した隠し財産に気付いただけだった。
夫が満州で何をしていたのか。
飛行機を使ってまで、頻繁に往来があった理由。
それは謎のまま終わった。
ただ、その謎を知っていた男がいた。
それが、久間木だった。




