第百四十五話 侵入者たちとその排除
警察の捜査で伊東悦子の名前が浮上するのは、あっという間だった。
居酒屋の親爺が見ていた。
水谷の連れも何人か別の店で見ていた。
竹中が、最初の宴会をした店で、しっかりと見ていた。
犯人は、伊東悦子。
くだらない雑誌が稔たちを記事にする。
粗悪な紙に刷られるのは、爛れた肉体関係の果てに刃傷沙汰になった画家と、夫のいる女。
稔の個展の成功も、それに拍車をかけた。
興味本位の事実無根の痴情話。
稔はひとつも読んでいないし、知ることもなかった。
何も知ることなく、退院して、家の布団に辿り着いた。
そこに横になった翌々日から、人の気配が家の周りでするようになった。
早苗が雨戸まで閉めて、立て篭もるような生活が始まったが、稔は何も見えない世界なら、何も新しく知りたくなかった。
小さな家と、小さな妻の体だけ、あれば良かった。
稔が感じていた人の気配は、名前も知らない出版社の記者たちだった。
藤村家には見知らぬ記者たちが、砂糖菓子に群がる蟻のように、やって来た。
早苗が出ても、雑誌のネタにされるだけ。
早苗は、稔を守るために雨戸を閉めて籠る。
二日、三日と経っても記者は減る事なく、状況は変わらなかった。
梅雨の雨の中、記者たちは時を定めずにやって来ては、玄関先で早苗や稔に声をかけ続けた。
まだ、戸口や雨戸に手をかける者はいなかったが、反応がないままの藤村家に対して、だんだんと遠慮が無くなっていった。
玄関の軒下で飯を食う。
早苗の手入れした庭先を踏み荒らし、タバコの吸い殻が打ち捨てられ、雨にうたれて汚れていく。
声をひそめることなく、複数人の人妻との関係がここで持たれていたと、邪推だけで話す。
それを記事にする算段を取り始める。
目を失った画家の悲劇性よりも、猥雑な話を好む人間は多い。
稔の、早苗の心情など、投げ捨てたタバコよりも価値がない。
この藤村家の状態を知るなり、早々に手を打ったのは、久間木だった。
有象無象の記者たちが早苗に取材をしようと群がってくる。
家の周りを記者たちがうろうろと歩く。
早苗と稔が閉じ篭る雨戸も締め切った家。
その閉じた家の外では。
「困りますなぁ。畑にまで入ってしまっては。」
雨の合間に、農作業をしている久間木が、記者たちにのんびりと声を掛ける。
「じいさん、ここの人間かい?中にいる藤村稔という画家は、最近見たか?」
薄汚れた背広に咥えタバコの記者が高圧的に久間木へ言った。
「知りませんよ。それよりあなたたちは、勝手に人の土地に踏み込んで、何の挨拶も無しですか?」
じわりと久間木が記者に身を寄せた。
あくまでも、弱々しい農夫の体で。
土に汚れた体を近づけられた記者は、苛立ったように口を歪めると、久間木の体を押した。
「邪魔だ。どけ。」
記者が久間木を脅すように言った瞬間、久間木は大声で叫んだ。
「ああ!痛い痛い!何ですか!勝手に人の土地に入ってきた上に!
ああ、腕が上がらない!
誰か助けてください!」
久間木は涙を流してその場にしゃがみこんだ。
「は?」
呆気に取られた記者が何か言う前に、後ろから腕をまわされた。
「アンタ、久間木のオヤジに何した!警察に突き出してやる!」
久間木と同じような農作業中の男が叫んだ。
「何だお前!」
記者がもがいて男の腕から抜け出そうとするが、身動きをすればするほど記者の体は動けなくなった。
他にも何人かいた記者たちが、遠巻きにして様子を伺っている。
誰も助けようとはしない。
「ここは私の土地と屋敷ですよ!勝手に入ってきた上に、こんな…あいたたた!」
久間木が喚くのを記者たちは何もすることなく眺めている。
関わりを避けているのだ。
間もなく、制服姿の警官たちがやってきた。
記者は警官に連れられて行き、残された他の記者たちも事情を聞きたいという警察の要請に答えて何処かへ連れられて行ってしまった。
涙を流していたはずの久間木は、ゆっくりと一人で立ち上がると、肩をぐるぐると回してから、嘆息した。
「やれやれ。不要な三文芝居は楽じゃないですねぇ。」
その日以降は藤村家の周りに記者たちが来ることは無かった。
そして、久間木の体を押した記者の姿は、その日からふつりと消えた。
早苗が久間木に言われて雨戸を開けるようになるまで何日かかかったが、ガラス窓を覗きに来るような者はいなくなっていた。
時々、竹中と冨田が様子を見に来ていたが、平穏な生活がいつの間にか戻っていた。




