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第百四十四話 稔の回想 4



 入院が続くほど、稔は衰弱していった。


 神経過敏になり、食欲が落ち、耐えず下痢になった。


 早苗が見舞いに来ている間は、仕切りのカーテンを閉め切っている。


 早苗を腕に抱きこんで眠るためだ。

 それ以外は、まったく眠れなかった。


 睡眠薬を飲んでも眠れず、ひどい時はその薬を飲むことも苦痛になり吐き出してしまう。




 メチルアルコールによる中毒に対しての処置は、ほぼ手遅れだった。


 稔は失明したまま、生きることになった。

 病院として、メチルアルコール中毒への処置はこれ以上は出来ない。

 それに何より、稔が早苗のそばに戻りたがった。


 こうして、稔は家に帰ることになった。


 退院の時、曾根崎が車を出してくれた。

 病室へ見舞いに来た時は、稔と同じくらいの衝撃を受けていたが、仕方がないことだと受け入れるのは早かった。


 曾根崎の五十年以上の人生の中で、お気に入りの画家の失明はそれなりに損失ではあったが、それ以上ではなかった。

 出来上がった絵は貰うことにして、幾ばくかの見舞いを上乗せにした金を出した。

 この退院の日に用意された送迎の車の手配が、曾根崎からの最後の餞別だった。


「藤村さん、あなたが描いた亡き妻の絵は、死ぬまで大事に飾らせて貰います。

 亡くなった妻の両親も、大変喜んでいましたよ。

 ありがとう。」


 車に乗る前に、曾根崎は稔の手を取って、優しく握手をした。


 もう稔の手に絵の具はついていない。


 それを曾根崎は惜しく思いながら、己の感情を殺すように目を閉じた。




 曾根崎の五十年を越える人生の中で、恐慌も震災も、戦争も空襲も、どれほど辛く重苦しい時代であっても、すべて自分の中で処理をしなければなかった。

 その苦痛をすべて呑み込んできた曾根崎が稔の絵に惹かれたのは、同じような人間だと思ったからだ。

 吐き出せない感情を直接、絵画に吐き出すことはせずに、祈りにも似た悲痛な声を昇華させて美しい少女を描いていた。


 この男に、この画家に、関わった晩年を送れれば、きっと金儲けだけの人生だったと思わずに済む。


 そう思った。


 自分を救うために、稔に支援を申し出た。

 それはひとときの甘い夢のようだった。


 経緯の違う、けれど同じような苦痛を抱いた画家が、桃源郷のような美しい絵を描いてくれる。

 それは曾根崎に麻薬のような快楽を与えた。



 だか、その甘い夢は絶たれた。



 新しい苦痛をまたひとりでやり過ごさなければならない。


 失明した稔と握手した手が離れ、強く感じたのは、ただひたすらに己の胸の痛みだけだった。


「さようなら、藤村先生。」


 稔は、曾根崎の手を名残惜し気に離し、何か言うべき言葉を探したが、何も言えずに、焦点の合わない両目から涙を流した。


 先に車に乗っていた早苗が、


「ありがとうございました。

 曾根崎さん。

 …奥様にも、よろしくお伝えください」


と、申し訳なさそうに、下がり眉をさらに下げて、硬い声で返した。




 病院の正面玄関を前にして扉が閉まり、藤村夫妻を乗せた車がエンジン音だけを響かせて、ゆっくりと曾根崎から離れていった。


 雨の降りそうな鉛色の雲が、曾根崎の頭上に居座っている。


 曾根崎は車が見えなくなるまで見送ると、そのままひとり、街の雑踏の中へ歩き出した。



 傘は持っていなかった。




 雨が降り始めた日暮れ近くになって、ようやくタクシーを拾うと妻のいる家へ帰っていった。







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― 新着の感想 ―
[一言] 曾根崎いいいい!!!!(ブワッ)
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