第百四十三話 稔の回想 3
稔は入院した。
甲斐のない結果が予想されていたが、それでもと早苗が懇願した。
早苗の小さな冷たい手を握って、稔は入院することを了承した。
そして、入院をした途端に、稔は熱を出した。
失明した事を理解してから、稔の視覚以外の五感が暴走したように動き出していた。
耳から入るすべての音、病院の匂い、慣れない食事内容、馴染みのないシーツの感触。
すべてが珍しいものではないのに、すべてを拾い上げようと稔の感覚は鋭敏になっていた。
そして鋭敏になればなるほど、失明したことを実感する。
受け入れられない事実を鋭敏になった感覚が刺してくる。
稔の思考容量を超えた情報と感情が寝ても覚めても追いかけてくる。
目が見えるはずだ。
何かに気づけば、視界がひらけるはずだ。
おそらく、そんな足掻きが感覚の暴走を許したのだろうと、稔は後から思った。
病院の消毒の匂いが、不意に戦地を思い出させた。
消毒しか出来ない負傷兵への処置。
それは、脳に彫られた刺青のように残る、追い詰められた大陸での記憶。
目を開いていても、閉じている時と同じ暗闇。
見えるのは過去に見たものだけ。
忘れてしまったままでいたかった、消えない記憶が常に現れてくる。
目が見えていた時、幻覚に対処することはできた。
かつて見た、戦地の風景。
初めて人を殺した時の瞬間的な情景。
銃剣を取り落とした時に古年兵から殴られた記憶。
手榴弾を抱え込んだまま動かない兵士の爆発前の一瞬の姿。
仲間の死体。
一瞬、囚われる。
けれど、目をつぶり、一度息を吐く。そして、吸う。
また、吐く。
その後に目を開ける。
光を受けた今の風景を見る。
夜ならば、早苗の寝息と体温。
それが、稔を幻覚から遠ざけてくれた。
あとは、視界を自分の絵で埋め続ける。
兵士の頃には描いた事のなかった、色の付いた絵。
それを描くことで、今が今で、幻覚は過去のものだと割り切ってきた。
それが、出来ない。
目を開いていても、閉じていても、同じ暗闇。
音は聞こえる。
匂いはする。
味覚も働いている。
触れば、分かる。
ただ、見えない。
幻聴は一度もなかった。
代わりに、幻覚だけが続いていた。
それは幻覚なのか、ただの稔の思い込みなのか。
それとも、本当は幽霊なぞというものを稔が見る事が出来ていただけだったのか。
誰にも確かめた事はないから、本当のところは分からない。
今、自分が見ているものが、全ての人に同じように見えていると、確信を持って言うことなど出来ない。
不確かな世界を誰だって見ている。
人は見たいものしか、見ない。
ならば、今まで稔が見ていた幻覚は、稔が見たいと望むものなのだろうか。
人が死んでいるところ。
兵士でもその土地にくらす異邦人の女子ども、年寄りでも。
死体は何処かにあった。
それが、今、ずっとある。
稔は視覚以外の全てで、目を補おうとしていた。
触れば分かる。
ならば、立体化して物を捉えればいい。
しかし、ふとした時に丸まった布団に、生き絶えた兵士の頭を触った時の記憶が蘇った。
「ひっ」
小さく悲鳴をあげて、稔は病室のベッドから落ちた。
床に打ちつけた肘と腰と足の痛みは、その夜、稔に戦地で襲撃を受けた夢を見せた。
「早苗…」
相部屋の患者たちを起こさぬように、小さな声で何度も早苗の名を呼んだ。
真っ暗な夜の闇に浮かぶ稔の手がもがきながらも、縋り付いていたのは、藁よりも頼りない妻の名前だけだった。




