第百四十二話 稔の回想 2
ずっと早苗を抱き締めたまま、稔は立ち尽くしている。
「灯りをつけよう、早苗。顔を見せておくれ。」
早苗の香りが、胸元から立ち上がってくる。
泣きながら体に汗をかいているのか。
早苗の髪に口付けを落とす。
早苗が泣き止むまでこのままでいよう。
そう思った稔に、早苗の声が届いた。
「稔さん、今は夕方よ。灯りなんて要らないわ。」
「早苗?」
何を言っているのだろう。
今、自分の瞼は開いている。
ぱちぱちと瞬きをする。
腕の中の早苗が動く。
「稔さん、わたしを見て。」
早苗の手が稔のこめかみに当たる。
「だって、こんなに真っ暗じゃ」
「稔さん、目が、見えないの?」
「早苗?」
何を言っているんだいと口に出そうとして、黙った。
目が見えない?
片目だけを瞑る。
真っ暗だ。
今度は反対側の片目だけを瞑る。
変わらずに真っ暗だ。
「早苗、やっぱり真っ暗なのは夜だから…」
早苗の泣き声が耳に響く。
稔の名前だけを呼び続けている。
吐き気が急に込み上げた。
「早苗、吐きそうだ。便所に…」
早苗に吐きかけないように、体を離した。
便所に行くまでに灯りがあるから、そこは見えるはずだ。
まずは居間の方に灯りを。
「稔さん、危ないから、ついて行く!」
涙声の早苗が叫んだ。
稔は早苗に手を取られながら、上り框に足を下ろす。下駄を履く。
まだ灯りは見えない。
早苗に握られた稔の手が、だんだんと湿り気を帯びてくる。
おかしい。
便所にたどり着いて、臭いが鼻をつく。
それなのに何も見えない。
早苗が便所の中にまでついてくる。
何も見えない。
いつも通りの慣れた体の動きなのに。
心臓が早鐘を打つ。
吐き気よりも腹の下る痛みが迫る。
早苗を追い出して、用を足す。
吐き気はあるが、口から出るものがない。
内臓が全てを吐き出そうとしている。
ーーー何かがおかしい。
稔は壁に手をつきながら、便所から出た。
「早苗。」
「稔さん。」
便所の後すぐの稔の手をとって早苗が歩き出す。
体が知っている場所へ向かう。
早苗と一緒に手を洗う。
水の冷たさが、稔の体に震えを与えた。
「稔さん、お腹が痛いのよね。お医者さんを呼んで貰えるように、久間木さんにお願いしてくる。」
「早苗…」
「お医者さんに、診てもらいましょう。」
きっぱりと早苗が言う。
稔はこくり、と頭を下げるように頷き、
「…部屋の灯りをつけていってくれ。両方とも。明るくしていってくれ。」
と震える声で言った。
「分かった…」
早苗が小さな声で答えた。
電灯のスイッチの音は聞こえた。
だが、稔には何も見えないままだった。
久間木が呼んだ医者が診断を下すあたりから、稔の記憶は混濁している。
両目の失明。
改善の見込みはないが、念のための入院。
体に入ったメチルアルコールを出すためだ。
おそらく、何の意味もない。
すでに、両目が見えていないのだ。
今、禁止されているメチルアルコール入りの酒は、終戦直後のヤミ市で沢山の人間の目や命を奪った。
三杯呑んで潰れるのが、カストリ酒。
一発で死ぬのが、メチルアルコール入りのバクダン。
メチルアルコールは、目散るアルコール。
失明も死亡も珍しいことではなかった。
その危険を冒してでも、アルコールを必要とした時代だった。
だが、その危険性の結果、メチルアルコール類は所持も禁止されていた。それが廃止されたのが、去年の夏。
まだメチルアルコールの摂取は完全に無くなってはいない。
それを、何故、稔だけが呑んだのか。
竹中たちと宴会をした店から歩いてすぐの水谷たち行きつけの店。
そこで呑んだ人間も、一緒に店を移動した人間も、稔以外誰もメチルアルコールを呑んだ症状がなかった。
稔だけ、呑んでいた。
保健所と警察が動いた先に、あの女がいた。
画廊で刃物を使って、稔を連れ去ろうとした、伊東悦子という女だ。




