第百四十一話 稔の回想 1
雨が降っている。
ほとほとと、屋根を打つ雨音がする。
伸びた髭にじんわりと湿気がまとわりつく。
失明して、何度目の昼なのか。
退院した翌日であることだけは、理解していた。
稔は片付けられた奥の部屋で、布団に仰向けになって寝ている。
襖も障子も締め切った部屋は、空気が動かず、水槽の中に閉じ込められたようだ。
あの日。
腹の痛みに目を覚まして、起き上がった。
夜中だと思った。
ずいぶん、眠ってしまったと思った。
だが、早苗の包丁を使う音が聞こえた。
夜中に?
この真っ暗な夜中に早苗が料理をしている?
違和感はまだあった。
空気が、夜中のそれではなかった。
庭の向こう側を車が通る音がする。
夜中にここまで車が頻繁に通る事はない。
だが、そんな違和感も後になってから数え出した。
その時はただ夜中なのにおかしいと思い、とにかく便所へ向かおうとした。
なんだか吐き気もある。
手探りで襖を開けると、湯気に混じった煮物の匂いが鼻先をかすめる。
こんな暗い内に煮物をしている?
まだ醤油は入っていない、野菜だけが煮込まれているあの甘い匂いだ。
「早苗?」
暗闇の中、声を出す。
足を踏み出すと、ちゃぶ台に当たった。
「稔さん、起きたのね。」
正面の下の方向から早苗の声が聞こえる。
「こんな真っ暗なのに、料理をしているのかい?」
「まだ夕方よ。夕飯の支度をしているのよ。」
早苗の声は、する。
だが、真っ暗で何も見えない。
「早苗?」
「なあに?」
いつも通りの早苗の声。
異状を感じる。
何故、これほど真っ暗なのに、早苗はいつも通りなのだろうか。
口にしてはいけない。
言ってはいけない。
だが。
「どうしてこんな夜中に料理しているんだい?」
おかしいだろう。
こんなに真っ暗な中、早苗が料理をしている。
何か早苗にあったのなら、それを取り除かなければならない。
早苗。
早苗を守らなければ。
稔が言ってからもしばらくの間、早苗の答えはなかった。
稔の不安感が増す。
「早苗…」
名前をもう一度呼ぶ。
不意に両側の頬を水気を拭いたばかりの小さな手が挟む。
「…稔さん…」
早苗の声が鼻先にあたる。
これほど黒い闇夜は、この家で見たことがない。
おかしい。
稔はいつも通りに早苗の両手に自分の手を重ねる。
「なんだい、早苗。」
「わたしを見て。稔さん。」
掠れた声でゆっくりと早苗が言う。
見て?
鼻先に近づいても見えない闇夜だ。灯りをつけなければ。
「早苗、こんなに真っ暗な中、灯りもつけずにどうしたんだい?」
早苗の手が震え始めた。
急に指先が冷たさを増した。
「早苗?」
「稔さん、わたしを見て。見えるでしょう?ねぇ?稔さん、わたしの顔を見て!」
早苗は何を言っているのだろう。
夢の中のように辻褄の合わないことを言っている。
「何を言っているんだい?早苗。灯りをつけてくれなくちゃ。こんな真っ暗な中じゃ、早苗の顔をも見えないよ。」
早苗は何も言わなくなった。
ただ頬に触れる手が震えている。
早苗の手から稔は手を離すと、早苗の肩があるあたりにゆっくりと両手を伸ばした。
肩が小刻みに震えている。
「早苗、泣いているのかい?」
早苗、早苗、早苗。
どうした、何があった?
いつも自分の中に、感情を閉じ込めてしまっている早苗。
何度も何度も思い出話を繰り返して話をしていても、早苗を自分の中に閉じ込められたと思えた事は一度もない。
いつも早苗は内側に閉じ込もっている。
早苗の全てを守りたいのに。
俺のものにしたいのに。
どれほどの言葉を尽くしたところで、僅かに繋ぎ止めるための紐を渡せたように思うだけだ。
だから、今早苗が泣いているのなら、その理由を聞かなければならない。
聞いて、その原因を取り除かなければならない。
もう失いたくないから。
「早苗。どうしたんだい。何が悲しいんだ?早苗。灯りをつけよう。早苗の顔を見せてくれ。」
稔が早苗を抱き締めて胸の中に閉じ込めた。
早苗は嗚咽を漏らしながら、体を震わせて泣いている。
稔は早苗の背中を優しく撫で続けた。




