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第百四十話 伊東という女 2



 あの日。


 指定された駅に向かうと、いつも通りの着物姿の稔と一緒に、三揃(みつぞろ)いの背広を着た若い男が駅から出てきた。


 夕方からの外出が珍しく、女はそのまま稔の後を追った。

 そして、同じ店に入り、一階に席を取った。しかし、待てど暮らせど、稔は降りてこない。


 だんだんと女一人でいることが目立ち、酔漢に絡まれるようになったので、一度店を出た。

 そして、稔が店を出てくるのを物陰からじっと待った。


 しばらくすると、稔が店から出て来て、また店の中へ戻った。

 だんだんと待っていることに堪えられなくなった頃、稔が男たちと店から出てきた。


 この頃になると、女は何故稔を追いかけているのか、理由など無くなってしまっていた。


 稔がそこにいる。だから、追う。


 ただそれだけが理由だった。


 女は自分が狂っているとは思ってもいなかった。

 とにかく、稔の姿を見なければならないという観念に囚われていた。


 それが何の意味があることなのかは分からない。だが、追わなければならないと理解していた。


 自分を見つめていた稔の目を自分のものにする。そのためには稔を見つめ続けなければならない。


 理由があるなら、それだけだった。


 妄執に取り憑かれた女には、時間などあってないようなものだった。

 稔を見つければ、ひたすらに見つめ、稔を見失えば、とにかく思い出して稔を脳裏に描いた。



 稔、稔、稔。


 女の頭の中には藤村稔だけが存在していた。


 その存在を自分のものにしなければ。


 ただそれだけを目当てに動いていた。





 しかし。


 その夜を最後に、稔が駅に来ることがなくなった。


 家にいるのだろう。

 毎日出掛けていた駅に一日中居ても、稔の姿を見ることはなかった。







 髪に手をやり、こめかみから首へと流す。


 窓を広く開けても灰色の空。


 びたびたと卑しい雨音が目の前で強く鳴る。


 早く稔を見たい。


 もういっそのこと、家へ行ってしまおうか。


 だが、早苗を見る稔は見たくない。


 他の女を見ている稔を見るくらいならば、何も見ていない稔の方がいい。


 ああ、あの目を自分のものにしたい。


 悦子は稔の鼻筋と、まつ毛の長い二重まぶたの大きな目を思い出しては、うっとりと微笑んだ。



「早く、見たいわぁ…」



 雨音に掻き消される小さな呟き。






 その呟きが畳に落ちるより早く、玄関の薄い扉が強く叩かれた。


「伊東さん、いますか?出てきて下さい。」


 ああ、あの男がようやく来た。

 稔を見ることが出来る。


 悦子は微笑みを残したまま、扉を開ける。

 そこには険しい顔をした見知らぬ男たち。


「伊東悦子。あんた、藤村稔にメチルアルコールを飲ませただろう。ちょっと一緒に来てもらおうか。」


 悦子の行為を断定するように言った。


 メチルアルコール?


 女は遠い記憶を手繰り寄せるように微笑みを消して、首を傾げた。


 メチルアルコール。


 ああ、あの男に取引を持ちかけられた時に。


「あたしが買った物ね。」


 呟いた途端に、男たちは殺気立った様子で悦子を取り囲んだ。






 男たちが言う事をまとめるとこういう事だった。


 藤村稔がメチルアルコール中毒により、失明した。

 失明する前夜、藤村稔は呑み屋街で梯子酒をしていたが、一緒に呑んでいた人間の誰一人として、メチルアルコール中毒に(かか)っていない。


 不審な人物を探していたところ、藤村稔と一緒に宴会に出ていた出版社の竹中が伊東夫人だった悦子を見ていた。

 その後にも、呑み屋の老爺の目撃証言もあった。夜の通りを女が一人、稔たちを追うように歩いているのを見かけていた。他にも何人かから、同じ証言が出ている。


 保健所と警察で調べた所、メチルアルコールを買った女についての証言が出てきた。


 普段から客の少ない小さな個人商店で、メチルアルコールを求めて買って行った女は、強く印象に残っていた。


 そして、先程の伊東悦子の言葉。

『あたしが買った物ね。』


 それはここまでの警察の調べを裏付けるものだった。

 伊東悦子という女が警察に連れて行かれる。




 雨音だけが、女の抵抗する声と物音を隠そうと、やかましく鳴り響いていた。







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― 新着の感想 ―
[一言] ひえええ!!! でも、命が助かっただけ、まだマシだったんですかねえ……。 死亡例も多いみたいですし。
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