第百三十九話 伊東という女 1
お待たせしました。
連載再開します。
庇から落ちる雨が、窓の外の泥濘に、びたびたと趣きの無い音を立てている。
女ーー伊東悦子は細く開けた窓から、雨が降るのを眺めていた。
警察から戻ると、伊東の家を出され、離婚届と手切金を渡された。
離婚届に署名したものの、不服があることを示そうと、苗字は伊東のままにした。
雨音が強くなる。
泥の匂いが部屋の中に籠もる。
じっとりと肌に触れる湿気に、気分が悪くなる。
悦子は畳の上に足を崩して座り、膝の上に乗せたスケッチブックに慣れた手つきで女の姿を描く。
今の自分ではなく、まだ男の肌も知らぬ乙女の頃の、かつての自分の姿を描く。
描いている間は、雨音も聴こえない。
だが、鉛筆の滑りを湿気が重くさせる。
まるで、偽りの絵を描くことを咎めるように。
しかし、女は罪を罪とも思わずに生きることに慣れてしまっている。
鉛筆の引っ掛かりなど、力で押し切ればいい。
黒子も皺も無い自画像を描く。
女の居る部屋は狭い風呂無しアパートの一室。
戦後の普請で新しいが、ちゃちな建材で作られた頼りないシロモノだ。
その建物に近づく、傘をさした白シャツ姿の男たち。
女はそれを知ることもなく、絵を描いている。
描き終わったように思い、悦子はスケッチブックから目を離して、窓の隙間から空を見上げる。
狭い空からは灰色の雨だけが次々と落ちてくる。
「次の連絡はいつかしら。」
悦子は物憂げに溜め息を吐く。
伊東家を追い出され、このボロ家に身を落ち着けた翌日に、見知らぬ男の訪問を受けた。
帽子を被る男。
身なりが整っている分、怪しさが増す。
しかし、男は身分の説明を一言もすることはなく、悦子への取り引きを口にした。
「この店で、この品物を買って来たら、藤村先生が外出するたび、あなたに、ご連絡を差し上げますよ。」
悦子は訝しんだ。
「こんなものを買うために?何故この住所まで調べて来たの?」
「別にその物はどうでもいいのです。何なら他の物でも構いません。ただ、あなたが無償で藤村先生の外出の場所を教えると言っても、信じないでしょう?
あなたがこの取り引きを受け入れやすいように、条件を出しているだけです。」
にっこりと愛想良く見えるように笑う男からは、信用のかけらも感じない。
だが、ここまで身を落とした今の状況をこれ以上悪くすることもない。それに、暇だ。
暇つぶしに買い物へ行き、稔の外出先を教えて貰えるのなら、これからの生活に張り合いも出るだろう。
至極、どうでも良かった。
この男の正体も、取引の理由も。
何もかもが、どうでも良かった。
これからの生活も、身の振り方も。
ただ、稔に再び近づけるのならば。それは悦子の腹の底から蠢めく楽しみに違いない。
伊東夫人だった頃の鷹揚さを示しながら、悦子は男との取り引きを受け入れた。
翌日の午前中、悦子は指示された個人商店で、指示された物を買い、午後に訪問した男へそれを手渡した。
「何に使うのかしら。」
「まあ、ランプに使うか、珈琲を淹れるのに使うか、そんなものでしょう。
お偉いさんの有閑趣味は、私どもには理解できませんので。」
男は帽子の下で僅かに眉を動かした。おそらく、この取り引きを持ち出したのは、この男の上の人間なのだろう。
悦子が玄関の薄い扉に、背中ごともたれ掛かったまま、右の掌を上にして見せた。
男は首をすくめて、「今日は外出されません」と答えた。
その代わりに、書店巡りの予定の日付を口頭で教えてくれた。
そして、別の日になると、時間と駅を指定された。
午前中の特定の時間に稔が駅を使うのを知った。
帰りはいつだろうかと、午後になるとまた同じ駅へと出掛けて張り付いて待った。
稔の跡を追いかけたかったが、男からは決して同じ電車に乗ろうとしてはいけないと固く約束させられている。
稔に見つかれば、外出自体を止めてしまうだろうというのが男からの説明だった。
何日もかけて、駅の近くに張り付いていた結果、稔の行動が読めるようになった。
毎日のように決まった時間に駅に来る。行きも帰りも。
駅からはまっすぐに自宅へ向かい、玄関先から早苗に甘い声を掛ける。
毎日後をつけるたびに、思い余って家に入ってしまおうかと考えたが、薄い窓ガラスと障子越しに、早苗へ話し掛ける稔の声が聞こえると、足が止まった。
そんな日の翌日は、決まってあの男が釘を刺しにくる。
「声を掛けたら、警察を呼びますよ。あなたを牢屋に入れてもいいんだ。」
悦子はその度に柳眉を顰めて、「わかってるわよ」と吐き捨てるように答えた。
だが。
その男からの連絡が途絶えた。
梅雨に入ってから、一度も連絡が来ない。
傘をさして駅へ行っても稔は来ない。
家まで様子を見に行くが、人の出入りが多く、近づけない。
「こんなことなら、声を掛けてしまえば良かった。」
女は深い深い溜め息を吐く。




