第百三十七話 男たちの酒宴 8
稔と水谷は、一時間ほどで水谷が稼いだ酒を全て呑み干した。
「いやぁ、ちょっと、アンタらよく呑むねえ。」
店の老爺が呆れた顔をして、小鉢を出した。
「まだ呑めるが。どうする、藤村。」
「別の店に行くのか?余り金は無いんだ。」
「画集を出しておいて?儲からないのか?」
「いや、まだ貰えるまで時間がかかるらしいんだ。サラリーマンのように毎月決まった金額ではないから、妻には苦労をかけるよ。」
稔が僅かに頬を染めて、ふう、と物憂げにため息を吐く。長めの髪がさらりと稔の頬を流れる。
酔い始めた二重まぶたが細められ、長いまつ毛が稔の目元に色気を添える。
すると、それを見ていた女の客が、
「じゃあ、うちにおいでよ。安くしておくよ。」
と、しなを作って稔に近づいてきた。
「おいおい、お前の旦那に怒られるだろう。」
店の老爺がやめておけと手を振って止める。
「それなら、ウチの人の店にくればいいじゃない。さっきのアリラン、歌って頂戴よ。」
「珍しくもないだろう。こんな芸。」
水谷が謙遜していると、別の客が話に加わってきた。
「いや、アンタの唄はいいよ。おれ、ソイツの旦那の店にこれから行くんだ。奢ってやるから、来いよ。」
「あら、言ったわね。アタシ、証人になるわ。約束よ!
さあ、そうと決まれば酒樽の底が見えてきた店に居ても仕方ないわ!さあ、行きましょう!」
女は嬉々として稔の着物に手を伸ばすと、そのまま腕を絡めて立ち上がらせた。
「ほら、もう一人のオニイサンも、おいでなさいな!」
にかっと笑うと、水谷の腕も掴んで店から連れ出された。
「……いいか?藤村。」
「……まあ、水谷の芸でタダ酒が呑めるなら。」
「……お前なぁ。」
互いに女の頭の上で目を合わせて笑い合うと、そのまま稔たちは女に引っ張られて夜の街へと消えていった。
その稔たちを追いかけるように、一人の女が歩いていることに、酒に酔った男たちは気が付いていなかった。
ただ、店の老爺は、女が一人で呑み屋街を歩いていることに、物珍しさを感じて覚えていた。
酔い潰れた冨田を送り届けた竹中は、ようやく自宅に向かう為の駅に辿り着いた。
酔っ払いながらも、冨田は姪と竹中を会わせまいと、自宅の鍵をこれ見よがしに持って歩いていた。だが、それが裏目に出て冨田の家の前で、鍵を紛失したことに気が付いた。
結局は、自宅に入らない冨田を隣の家に住む姪の菜津水の家に送り届けることになった。そこで冨田も大人しくなるかと思えば、嘔吐を堪えてまで竹中と菜津水の邪魔をする。
「結局、誘えなかったじゃないかぁ。冨田さんのバカヤロー!」
駅の改札口に向かって歩きながら、竹中が独り言で怒りを発散していると、見慣れた着物姿を見つけた。
「あれ?藤村先生、こっちの駅まで来られていたんですね。今、おかえりですか?」
付き合い程度にしか酒の呑めない竹中は、冨田の介抱に託けて、酌から逃げていた。
その成果で酔い潰れることなく、駅に辿り着いたのだが、稔の様子がおかしい。
「藤村先生?」
改札口近くで切符を片手に持ちながら、ふらふらと立っている。
「藤村先生?」
もう一度竹中が声を掛けると、きりりとした眉を険しくしていた稔が、長いまつげで影を作った二重まぶたの目に笑みを浮かべて竹中を見た。
そこだけ花開いたように空気が弛む。
「ああ、竹中くん。今帰りかい?遅くまでご苦労様。気をつけて帰れよ。」
「…藤村先生?」
竹中は一瞬で周りの空気が変わった事を感じた。
ふ、と視線をやれば、化粧が濃い目の夜のお姐さんたちが、じわり、と近づいて来た。
「竹中くん?」
稔が軽く首を傾げ、酔いに任せて乱れた長めの髪がはらり、と流れると、また、周りのお姐さんたちが騒めく。
ふふふと酔っ払った稔が笑うだけで、わずかに厚めの唇から色気が漏れる。
竹中は、大型肉食獣たちに囲まれた猫のように、身の危険を感じていた。
普段、酔っ払いらしい状態になるまで酔うことのない稔が、頬を染めてふわふわと居るだけで、女たちの視線が集まってくる。
竹中は恐怖を覚えた。
このまま、稔を一人で帰したら、自宅に着くまでの間に拐かされそうだ。
そうなれば、あの早苗に竹中は叱責されるだろう。
「……美人さんが怒ると怖いんだよなぁ…」
冨田といい、稔といい、どうしてこうも世話を焼かなければならない人と一緒になってしまうのか。
化粧の濃い雌の肉食獣たちに囲まれている気配を感じ、竹中は少し涙目になりながら、覚悟を決めて稔の背中に手を置いた。
「さあ、お送りしますから。行きましょうか。」




