第百三十六話 男たちの酒宴 7
水谷のコップに、稔が黙々と酒を注ぐ。
水谷は、それを黙って呑んだ。
三杯ほどそれを繰り返して、水谷はまた話し出した。
「……まだ、話せないものだな。
帰ってきて、何年も経っているのに。」
「そういうものだろう。」
「藤村は、種蒔きした事あるか?」
「畑に蒔くやつだろ?」
焼け跡に建物が立つ前は、辺り一面畑になっていた。その手伝いを何度もした事はある。
それを見透かしたかのように、水谷は苦笑すると、遠くまで見渡すように、右手で庇を作ると、稔に笑いかけた。
「大陸でも広いと思ったが、ソ連は更に広かったぞ。どこまでもどこまでも畑なんだ。
朝、種を貰って、それを歩きながら蒔いて行く。そして、太陽が一番高い所に来たら、昼飯を食べる。そして、そこから折り返して種を蒔いて帰るんだ。
それで一日が終わり、だ。」
稔は、種の入った袋か何かを肩から下げた水谷たちが、片手を振りながら半日掛けて歩き、また同じだけの距離を片手を振りながら帰ってくるのを想像した。
「それは、広いな……」
あまりにも説明が端的過ぎて、稔は言葉を失った。
「な?凄いだろ。」
くくくっと笑いながら、水谷が空のコップを稔に示した。
稔は黙って酒を注いだ。
「まあ、そんな所でなーんにも楽しみも何も無かった。
あるのは、己の体ひとつ。
それでも生きているだけで、大したもんだったよ。」
一口、酒を呑む。
稔も釣られて、呑む。
「そこでオレの唄と踊りの出番だよ。中々の評判で、タバコまで貰えたりしたんだぜ。」
戯けたように笑う水谷の笑い皺を見て、稔は不意に泣きたくなった。
水谷の置かれた状況は、戦時と違う苦しみがあったのだろう。
衣食住がどこまで守られていたのか。
訊いたところで、生きて帰って来たからそれなりになんとかなったとしか、言わないだろう。
戦場だけでなく、水谷は、仲間をシベリア抑留で置いてきた。連れ帰ることも出来ないたくさんの仲間たち。
生き残った事が、どこまで慶事と出来るのか。
水谷のような周りに気を遣う人間が、何も思わないわけがない。
だが、水谷は口に出来ない。
口に出せるほど、消化も出来ていない。
ただ、同じ抑留者の仲間たちの無聊の慰めになったのだと、己の芸に誇りを持っているだけだ。
それだけが、水谷を戦場から、抑留地から、現在に戻した。
稔と同じだ。
忘れることも、無かったことにすることも出来ない稔たちは、贖罪をして初めて生き続けていける。
過去の全てを肯定することは、出来ない。
それでもしてしまったことを、忘れずに生きていく。
記憶は消えない。
ただ、時間をかけて折り合いをつけて生きていくしかないのだ。
死ぬ為に生き残ったのではないから。
稔も水谷も生きる事を選んだ。
だから、今、ここで酒を呑んでいる。
稔の描いた絵のような、綺麗な世界に稔はもう戻れない。
純真な穢れを知らない少女たちは、稔の中の良心だ。
汚れた自分の手から創り出される清浄な乙女たちは、蓮の花のようだ。
救いを求めて、もがき苦しんで、絵空事のようにそこだけ美しくなる。
罪の分だけ、美しくなる。
その花を求めて人が寄ってくる。
誰でも、明るいもの、美しいものに心惹かれるのだ。
暗い影を持つ人間なら、尚更。
水谷の唄と踊りも、目の前の相手の心を一時でも楽しませられるのならと、芸を磨いたのだろう。
己を救う為に。
稔も同じだ。
己の為に、他人の為に絵を描く。
矛盾のように思えて、循環している。
ただ、生きる為に。
回り続ける間は、とても単純で明快な行為。しかし、それが少しでもズレたら。
複雑で脆く危うい。
稔達は、薄氷を履むように復員後を生きている。
それでも、生きている。
酒を注ぐ。
酒を呑む。
それも、生きている証だ。
稔は互いに黙ったままだった水谷のコップに、自分のコップを打ち当てて、
「呑もう。」
と、声を掛けた。
水谷はまだ酔い足りない顔で、
「ああ。」
と、答えた。
二人はそれからあっという間に一升瓶を空けた。




