第百三十五話 男たちの酒宴 6
稔の周りで、酒を呑む男たちは、髪も伸ばしていて、背広やワイシャツ姿だ。
誰も兵隊の服を着ていない。
今は、働けば働いただけの報酬が出て、会社帰りには酒を呑むことも、ひとつの習慣として、でき始めている。
兵隊の服を着ていた男たちは、今はサラリーマンとして、社会で働いている。
ただ、そこに辿り着けなかった男たちが海の向こうに数え切れないほど、骨として残っている。
連れて帰りたかった。
せめて、指の骨だけでも。
稔も他の兵隊たちも、極限状態の中で自分が生き延びることすら、確かな事ではなかった。その状態で、遺体を全て持ち帰ることなど、誰にも出来なかった。死者から身ぐるみ剥ぐことも、誰も咎めなかった。
その頃の記憶が、戦時の終わった平常の時代になって尚更口に出来なくなる。
戦犯ではない。
しかし、無罪でもない。
誰も咎める事のない罪を犯した本人だけが、責め続ける。
それから逃れるために、働き続けている。
みんな、そうだろう。
戦地で出来なかったこと、戦地でしてしまったこと、戦地で見逃してしまったこと、全てを抱えて生きざるを得ない。
そして、戦地で遭遇した理不尽な事を全て無かったことにも出来ずに、それぞれが踠き苦しんでいる。
その苦しみから逃れるために、社会で働き続ける。賃金の貰える会社で。仲間の家族が今も生き続けている地域の中で。誰かの役に立っていると、自分に言い聞かせて、働いて生きることを自らに赦している。
過去を肯定しなければ、生きていけないから。
間違いであったと、今なら言われることでも、当時はそれが正しいことだった。
その時の己の所業を全て否定するなら、自殺に向かうしかない。
生きながら、己の所業を呪い、悔やみ、赦しを与えず、ただ責め続ける。
その苦しみを口に出す事なく、周囲を巻き込み、苦しみ続けて、やがてくだらないきっかけで死んでしまうのだ。
戦争はなんだったのだろう。
国のため、家族のため、早苗のため、俺は兵隊になったはずだった。
だが、不在の間に早苗は家族を失い、勤め先を失い、知り合いを亡くしていた。居場所も記憶の縁になる場所も全て失くして。
戦場に行ったのは、稔だけのはずが、早苗も稔と同じ暗い目を持っていた。
ーーー守れていなかった。
稔は命懸けでした事が、何の意味も無かった事を知っている。それでも、早苗のそばに居続ける為に、自分の過去にも意味を持たせた。そして、今も絵を描く事で意味を持ち続けている。
稔は早苗の為に絵を描き、生きている。
早苗を失うのなら、稔自身が全てを失っても構わない。
早苗だけが、稔の生きる意味を与えてくれる。存在を肯定してくれる。
それだけが、光だ。
稔が黙々と酒を空けていると、水谷が顔を画集に向けたまま、独り言のように言った。
「オレの唄も踊りも、上手くなっただろう?お前と同じ理由だ。」
「戦地で磨いたんだろ。」
「戦地…あれは戦地では無いな。」
手酌でコップに酒を満たすと、水谷は煽るように呑んだ。
「あれは地獄だ。」
昏い目の水谷が、吐き出すように話し出した。
「前触れもなく、侵攻されて、捕まって。
荷物のように列車に乗せられて。
明け方に太陽が出るだろ。それがレールの後ろ側から出た時、何も考えたくなかった。
東と反対の方に向かっているということは、日本には帰れないことでしかなかったからな。」
水谷は、シベリア抑留者の一人だった。




