第百三十四話 男たちの酒宴 5
安来節の後も、店の老爺の唄と水谷の踊りは続いた。
拍手喝采の中、水谷は風呂敷を肩に掛けて、女形のようにしなを作ると、籠を抱えながらそこに入れたちり紙をひらひらと動かした。
そして、アリランを歌い始めた。
踊りと同じように、唄も磨きがかけられていた。
抑揚をつけて、狭い店内だけでなく、路上を通る人々にも届くように声を張っていた。
その声に店の客たちは、一様に静まり返り、水谷の唄声だけが広がっていった。
最後の一節が終わると、水谷は七三に分けた頭を下げて、すすすと座敷の端の方へと下がって行った。
店の客たちは慣れた様子で、
「おい、酒をあいつに一合分奢るぞ!」
「今夜はまた出来がいいねぇ。三合分奢るよ。」
「じゃあ、オレは二合つけてやる。おやっさん、頼んだよ。」
と、老爺に注文を出していた。
水谷の出演料は全て酒になるらしかった。
そういえば、いつも最後まで呑んでいたのは水谷だけだったと、稔は思い出していた。
「水谷のお仲間なら、呑めるんでしょう?さあ、どうぞ。どうせアイツだけじゃ呑み切れないんだ。」
そう言って老爺が稔の横に徳利を置いた。
「いつもここで踊ってるんですか?」
稔が老爺から酒を注がれている間に、手慣れた様子で水谷の仕事仲間たちが畳敷きの机を戻して座布団を並べていた。
「呑みに来たらだいたいやってるねぇ。お陰で酒が出てありがたいね。」
老爺は、ひゃっひゃっと笑った。
座敷の設えが元に戻ってから、稔はコップと徳利を持って、水谷の隣に移った。
「相変わらず、ずいぶんな人気者だな。」
「仕事中はおとなしいけどな。宴会の間だけ元気だ。」
水谷が笑う。
稔は何気ないように言った。
「水谷、お前の踊りと唄は大したものだ。」
「ありがとう。お前の方も凄いじゃないか。本を出すなんて。」
稔のずっと言えなかった言葉は、あっさりと水谷の謝意で返された。
拍子抜けした気分の稔だったが、水谷にしてみれば、そこまで稔が言い淀んでいたとは思ってもみなかったのだろう。
それに水谷からは純粋に稔の画集への賛辞を感じられた。
「へぇ、お前、絵が上手くなったな。」
それは、いつも稔の中で幻のように亡き戦友たちに言われていた言葉。
その言葉を同じ戦地で同じ時を過ごした水谷が、なぞるように口に出した。
稔はぐっと胸が詰まったように感じた。
「あの時は鉛筆だけだったからな。これは綺麗だ。」
稔の絵を見ていた仲間たちは、ほとんどが死んでしまった。
生き残っていても、今の稔の絵を知っている人間は居ない。
だから、いつも稔は自分の胸の内だけで、亡き戦友たちが言ってくれそうな言葉を並べていた。
それが、今、現実の言葉として稔の耳を打っている。
「上手くなったな。」
その言葉が聞きたかった。
誰でもいいから、言って欲しかった。
その言葉を、昔は妬みすら抱いた、あの水谷に言われている。
稔は万感の思いを込めてコップに酒を注ぐと、涙と一緒にひと息に呑み干した。
復員してから、一番美味い酒だと、稔は思った。
それを見ていた店の老爺が、
「おぉ、あんたさん、水谷と同じくらい呑みっぷりがいいね。
さあさあ、水谷の踊りで稼いだ酒がある。どんどん呑んでくれ。」
と、陽気に酒を並べる。
水谷が間断なく、稔のコップに酒を注いでくる。稔も水谷のコップに注ぎ返しながら、言い出しにくそうに、ぼそぼそと話した。
「……ずっと、あいつらに描いてたんだ。
戦地で俺の絵を見ていたあいつらが、もうここには戻って来れない。
だから、少しでもあいつらが見たいと思ってくれるように、女の絵を描いていたんだ……。」
「藤村…?」
「俺は水谷みたいに、踊りも唄も出来ない。鉛筆で描いた絵が、初めて認められた。それでもなぁ。
もう居ないんだ。あの頃の絵より、上手くなったって、言ってくれる奴は。
みんな、置いてきてしまった。」
「藤村…」
稔は周りで騒ぎながら、酒を酌み交わす客を見ながら、コップの酒を呑んだ。




