第百三十話 男たちの酒宴 1
早苗が熱を出して寝込んだ日の翌週。
家に居る間、稔は過保護なまでに早苗の世話を焼き続けているが、日中はアトリエへ毎日通い続けていた。
一日休んだ分を取り戻そうと、せっせと素描をして、構図を考え、百号の作品を描く準備をしている。
その傍らで、曾根崎の亡妻の絵を描き上げていた。
「もう少し柔らかい感じが欲しい。」
「いや、そんな媚びを含んだ目はしない。」
「もっときつそうな顔立ちだった。」
曾根崎からは矛盾するような内容の修正を受けながら、素直に筆を動かす稔。
「一枚だけでなく、何枚か描いて欲しいんだ。あの女のご両親はまだ生きているから、一枚差し上げたい。」
曾根崎は絵を見ながら、もう存在しない亡妻の姿を確かに思い出していた。
「それなら、小さなものを一枚描きますか?仏壇の横におけるくらいの大きさで。」
「うん。頼む。」
曾根崎夫人にはしばらく出入り禁止と言ってあるらしい。
亡妻の絵を稔に描かせていることを隠すためだ。
邪魔になるからと曾根崎が言った時、少し怯えたように見えたそうだが、「集中させて欲しい」という主旨の稔の言葉を伝えると、安堵したように了承してくれた。
早苗は何も言わない。
熱を出して寝込んだ後は、アトリエにはついて来なくなった。家事手伝いの山下から「また来て下さいね」と伝言を貰い、早苗に伝えていたが、早苗は曖昧に答えるだけだった。
稔は描いた。
とにかく描いた。
半月だけで体重も減り、頭はずっと絵の事ばかりを考えている。
アトリエから出て、家に帰ると早苗にくっついて離れないが、早苗の髪を撫でながらも頭の中では絵の事をばかりを考えている。
それには早苗も気がついていて、時々、
「稔さん。」
と言って、無理矢理にでも稔の顔を早苗の正面に動かすこともある。
その時は早苗のご機嫌とりに勤しむが、やはり頭の中では絵の具や構図をずっと考えていた。
そして、そろそろ梅雨入りかという頃。
桜の木の下にある紫陽花の蕾が膨らみ、早苗は庭の雑草取りに精を出していた。
稔は曾根崎の亡妻の絵を二枚描きあげ、百号の下絵も終わりかけている頃だった。
久しぶりに書店巡りをする。
個展で完売したことも喧伝材料になり、画集が重版された。
そこで冨田と竹中が音頭をとり、祝いの席を設ける事になった。
「……早苗、これは大事な事なんだ。」
「お酒を呑むことが、ですか?」
書店巡りの後、酒宴を開催する。
今回は出版社の社長も臨席する為もあり、稔は主賓として招かれている。
早苗は黙って、じいっと稔を見つめている。
「本当に、行くんですか?」
「行かせてください。」
早苗はふう、と諦めたように強張っていた下がり眉を弛めると、
「呑み過ぎたら、知りませんからね。」
と、切れ長の目を伏せて言った。
その書店巡りと同じ日の夕方。
小さなアパートの一室で、女が髪を梳かしていた。
無地で質素に見えながら、上質なワンピースを着ている。
小さな部屋に僅かな荷物。
それでも、できる限り綺麗に見えるようにと身支度を整えて、女は鏡の前で仕上がりを確認すると、街へ出掛けていった。
駅の近くまで来ると、雑踏に紛れて、改札口から出てくる人の流れを凝視している。
どれくらいの時間が経っただろうか。
曇り空に西陽が籠るように反射し、あたりは橙色の光に染まっている。
その中に、背の高い一人の男を見つけると、女はゆっくりと後を追った。
女は慣れた足取りで、男を追う。
少し長めの髪に着物姿の男は、人の流れに逆らうことなく、歩いていく。
着物姿の男は、三揃いを着た若い男と連れ立って歩いている。
その姿を見つめながら、女は付かず離れずの距離で、後をついて行った。




