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第百二十九話 波紋に藤の花 9

 稔が帰って来てからが、ひと騒動だった。


「早苗、熱は?」

「早苗、何か食べたかい?」

「早苗、着替えようか?」

「早苗、気持ち悪くないかい?」


 早苗、早苗、早苗と、稔は早苗の「うん」とか「いらない」とか、僅かな言葉を聞き出そうとあれこれと世話を焼いた。


 とにかく落ち着かない。


「明日は手伝いの人たちみんなにも休んでもらったから。ちゃんと早苗の看病をするから、安心して眠りなさい。」


 汗でしっとりとした早苗の髪を稔が丁寧な手付きで()く。

 その感触に安堵したのか、早苗は目を閉じるとそのまま眠り始めた。




 夢の中だと分かっている。


 それでも見ている間は、その夢が現実だった。


 夏の夕暮れに蚊取り線香を焚いている。


 豊子が畑から採ってきた枝豆を(かまど)の鍋で、ぐらぐらと茹でている。


 珠代が着物姿で(たすき)掛けにして、魚をさばいて笑っている。


「早苗さんに美味しいお刺身を食べさせてあげますわね。」


「珠代さん、塩焼きも食べたいです!」


「ふふふ、構いませんわ。安全な魚しかありませんもの。かつての騒ぎが嘘のようですわね。」


「野菜もたくさん食べましょうね。早苗さん、大根の煮物食べたいから作って下さい!」


「……豊子さん、料理を覚えてください。」


 早苗はしぶしぶといった顔で蚊取り線香を置くと、干してある梅を縁側へと片付ける。


「稲川さんはまだ来ないの?」


「あ、もうすぐ来るはずですよ!お酒が重いのかも。」


「どれだけ呑む気ですか。」


 早苗がげんなりとして、土間に珠代と豊子と共に並んで、料理を始める。


「早苗さん、藤村先生、すごいですね。」


「まあ、本当に。公募展覧会でも賞をとって、画壇にも認められてきましたでしょう?

 私の肖像画も欲しいと言う方が何人もいて、どんどん値を吊り上げていくのですもの。お引き取り願っていますけれど、飛ぶ鳥を落とす勢いとは、このことですわね。」


 早苗は珠代と豊子が笑うのに合わせて、満足気に笑う。


「個展を始めた時には思いもよらなかったわ。でも、わたしは稔さんの絵が好きなの。

 たくさんの人に見て欲しいし、認めて貰いたいわ。」


「忙しくしていらっしゃるんでしょう?藤村先生は。」


「ええ、今日も泊まりなの。だから、ゆっくりしていって。」


「早苗さん、一緒にお風呂に入りましょう!」


「豊子さんはなんでも一緒にしたがるのね。」


 眉間に皺を寄せて、下がり眉で早苗が答える。


「だって、藤村先生とは一緒に入るんでしょ?それなら、いいじゃないですか。」


「何がいいのか分からないんですけど。」


 早苗は手早く包丁を動かす。


 明日の夜には稔が帰るはずだ。少し多めに作ろう。


「早苗さんも寂しいんじゃないですか?」


 豊子が枝豆をひとつ、箸で摘み、水にさらす。茹で具合を確認している。


「今はもう慣れました。寂しくなんかないもの。珠代さんも豊子さんもよく泊まりに来るから、寂しくなりたいくらいよ。」


「もう、早苗さんたら素直じゃないんだか!」


 豊子が早苗の背中を叩き、珠代はそれを見て、ほほほと笑っている。


 早苗は微笑みながら、二人を見返した。









 夢から覚める。





 目を開けると、暗闇。




 早苗は胸の奥が痛み、隣に眠る稔の寝息を探して耳をそばだてた。


 規則正しい呼吸が聞こえた。


 早苗はほっと息を吐いて、今は布団の中にいて、珠代も豊子もいないことを確認する。


 夢だ。

 夢だと分かって、早苗は涙を流した。


 胸の痛みが、今の早苗に、あれは夢だったと更に伝えてくる。




 明け方の光が瞼に当たるまで、早苗は悲しみを(こら)えて泣き続けた。







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― 新着の感想 ―
[一言] これが早苗の理想なんでしょうねえ( ˘ω˘ )
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