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第百二十八話 波紋に藤の花 8

 その後すぐに、久間木の独断で医者が呼ばれ、早苗は風邪と診断された。


「体を冷やしたせいもあるんでしょうが、藤村さんの個展からずっと気を張っていたんでしょうねぇ。」


 早苗の枕元で久間木が(おけ)の水に浸した手ぬぐいを絞りながら言った。


 ため息と一緒に。


 早苗は小さな子どもが学校の先生に怒られているような心持ちで、それを聞いていた。


 熱で少し心細くなっているのだろう。


「すみません、久間木さんにご迷惑をお掛けして。」

「こちらこそ、申し訳ない。

 朝には藤村さんから頼まれていたのに、かつ子が風疹になってばたばたしてしまったんですよ。

 早苗さんは、風疹にはもう罹りましたか?」

「ええ。」


 久間木は安心したように頷く。


「寿栄子はかつ子につきっきりで、早苗さんにうつしてもよくないからと困ってしまいましてね。

 それであまり役に立たなさそうな私が来ることになりましたが、いやはや。私が来て良かったというか。」

「すみません。」

「おや、病人がそんなに気を遣ってはいけませんよ。

 家から持ってきたお粥と麦湯を飲んで、薬を飲みましょう。」


 早苗は小さく頭を動かすが、起きようとはしない。久間木はそれを見て、手ぬぐいを早苗の額に置いた。


 冷たさに、ほうっと息が漏れる。


「……早苗さん、何かあったんですか。」


 早苗は黙ったまま、目を閉じた。


 塀の向こうを車が通る他は、静かなままだ。日の当たる障子の桟から、ぱしりと小さな音が出た。


 早苗が何も言わないのを見てとると、久間木は小さな声で、


「お粥、食べましょう。」


と、言った。




 久間木が稔に連絡をしたのは、夕方になってからだった。


 早苗がどうしても稔の邪魔をしたくないと駄々を捏ねたからだ。それを久間木は「黙っていた方が失礼ですよ」と諭して、なんとか電話をする許しが出た。


 ぐずぐずと駄々を捏ねる早苗は、子どもに返ったかのようだった。


「…藤村さん、驚いてましたよ。早めに言えば良かったんです。」


 子どもを叱るように布団の中の早苗に久間木が言った。


「だって、稔さんは、わたしより絵が大事だもの。」


 ぐすぐすと熱が上がった早苗は鼻声で言う。


「馬鹿な事言うんじゃありませんよ。帰ったら聞いてみなさい。」

「いいんですか、聞きますよ、わたし。」


「答えが分かる事を聞くほど馬鹿らしいものはありませんよ。」

「ええ、馬鹿ですよ。わたしは。馬鹿なんです。」


「どうしたんですか、早苗さん。」

 久間木が困ったように言った。


「……絵を描かなくてもいいんです。わたしのそばに居てくれれば。それだけでいいのに。」

「それなら、そう言えばいいじゃないですか。」

「だって、わたしの為に描いてるから、稔さんはきっとやめないのよ…」


 本当に子どもに返ったのかと久間木は早苗を心配そうに見つめた。


「それなら、藤村さんも早苗さんが居なければ絵を描かないということじゃないですか。

 早苗さんの方が大事ということではないんですかね?」


 それを聞いた早苗はぴたりと口をつぐんだ。

 そして、大きく目を開くと、下がり眉がさらに下がった。目を天井の方に向けると、其処に何かがあるかのように凝視し、「そうね」と小さく呟いて、また黙った。


「あまり考え込み過ぎると熱が上がって、目が見えなくなってしまいますよ。

 恋は盲目と言いますが、早苗さんは本当に藤村さんが好きですねぇ。」


 ははは、と小さく久間木が苦笑した。




 稔が車を降りて、慌てて玄関の戸を開けるまで、久間木は早苗の枕元で看病を続けた。


「娘はいませんが、息子と違って看病する気になれるものですねぇ。」


 苦笑する久間木を見て、早苗は父親とは本来こういうものなのかもしれないと、益体のない事を思っていた。








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