第百二十七話 波紋に藤の花 7
早苗は、布団に入って羽織を肩に掛けたまま、稔が食器を洗う背中を眺めていた。
アトリエを初めて使った日で、少し興奮しているのかもしれないが、体は疲れているはずだ。
それでも稔は早苗の体を一番に考えてくれている。
早苗は、考えてはいけない事を考えてしまっている。
ーーー稔にとって、絵と早苗、どちらの方が大事なのか?
稔は早苗が居なくても、絵が描ければ生きていけるのだろうか?
稔は絵が描けなくても、早苗が居れば生きていけるのだろうか?
早苗は水音を聴きながら、ぼんやりと稔の背中を見ていた。
稔も布団に入り、電灯を消すと暗闇になった。
ガラス戸を入れた後は、雨戸を閉めずに朝の日が入るままにしている。
しかし、それもだんだんと早くなり、明け方に目を覚ましてしまう弊害があった。
夜に早く寝るにも限度はある。
稔は早苗の枕元に、稔の描いた絵が貼られた衝立を置き、朝日が当たらないようにした。
その衝立で、稔は布団の中から早苗の顔が見えなくなった。
稔は布団から出ると、衝立を外し、朝に置き直すことにした。
早苗はそれをじっと見ていた。
翌朝、早苗は一度目を覚ましたが、衝立を置く稔を見ると、また目を瞑って眠ることにした。
目を閉じた早苗の髪を優しく稔が撫でる。
その感触を早苗は愛おしいと、改めて思った。
早苗が目を覚ますと、稔はアトリエに向かった後で、ちゃぶ台の上には重箱に入ったおにぎりが置いてあった。
当たり前だが、部屋を見回しても稔は居ない。気配もない。
早苗は重箱の蓋を閉めて、また布団の中に戻った。
体が熱い。
汗の嫌な感触で目を覚ますと、だいぶ日が高くなっていた。
昨日、早苗は曾根崎夫人が立ち去った後も、ひとり、池を眺めていた。
玩具の水車がくるくると周り、その横から花びらが流れて来た。
白い花だと思っていたが、少し青みがかった色が付いている。
早苗は池の水が入ってくる所に見当をつけて、庭の奥の方へと進む。
丁寧に手入れされた松の木や、楓の根元の奥に配置された石の水路に水が流れている。
上流に向かって水路沿いに歩いていくと、そこには見事な藤棚があった。
今が花の盛りのようで、ふっくらとした藤の花の下に立てば、藤棚の外では仄かだった陶然とする花の香りが、早苗を包む。
藤棚の下には石で出来た腰掛けがあった。
早苗はそこに腰を落ち着けると、ぼんやりと藤の花を下から眺めていた。
だんだんと光が薄くなり、橙の雲が西に広がっても早苗はそこから動かなかった。
時折り、風が吹くと、また曾根崎夫人が来たのだろうかと、早苗はひとり身を固くした。
『あなたが、藤村先生の才能を潰しているのよ。』
早苗の頭の中で、曾根崎夫人の言葉の残響が消えなかった。
そのまま日が暮れるまで、藤の香りに守られるように、そこに座っていた。
きっとそこで体を冷やしたせいで、熱が出たのだろう。
決してあの女に言われた事で熱を出したわけじゃない。
早苗は、ぐぅっと歯を食いしばり、濡れた感触の布団の中で寝返りを打った。
誰かの声がする。
早苗は痛む体を軋ませながら、身を起こした。
「早苗さん、久間木です。早苗さん。」
とんとんと縁側のガラス戸を叩く音と、久間木の声がする。
障子までにじり寄って、なんとか開けると、窓ガラスから覗く久間木の顔と合った。
「玄関が閉まっているので。ここでもいいです。開けて下さい。」
早苗は頷くと、膝を折った体勢で座ったまま、ずりずりと這って進み、縁側の鍵を回した。




