第百二十六話 波紋に藤の花 6
稔は早苗の足を丁寧に洗うことに専念しすぎてしまい、早苗が泣いているのに暫く気が付かなかった。
早苗はぽろぽろと静かに涙を流しながら、稔が足を洗い続けるのを見ていた。
不意に嗚咽が出る。
稔が顔をあげると、泣いている早苗の顔が目に入り、慌てた。思わず手ぬぐいを盥に落とす。
手ぬぐいは、あっさりと湯の底に沈んだ。
「早苗?具合が悪いのか?それとも足が痛いのか?」
「…ふっ、う、うぅん、ちが…」
早苗が涙を堪えて話そうとするが、言葉が続かない。
稔は濡れた早苗の頬を両手で挟んだ。
「早苗、このまま洗っていいかい?」
早苗はこくん、と頭を下げた。
稔は泣き続ける早苗の体を丹念に洗う。
盥に泡が浮かぶ。
その浮かんだ泡に、ぽつぽつと早苗の涙が落ち続けた。
稔は最後に早苗を立たせると、少しぬるめの湯をバケツからそっと早苗の体に流した。
早苗の肩から背中から、水滴は流れを作って滑り、足元まで緩やかに落ち続けた。
稔は早苗の体を拭いて、また横抱きにすると、そのまま布団の隣まで運んだ。
早苗に寝巻きを着せると、布団に寝かせ、ぽんぽんと軽く腹の上を叩いた。
「すいとんなら、温まるだろう。それまで布団に入っているように。」
早苗は目を閉じて、小さく首を動かした。
涙は止まっていた。
早苗は目を閉じたまま、稔が包丁を使う音を聞いていた。
とんとんと、少し遅い拍子でまな板に包丁が当たる音が響く。
稔はゆっくりと包丁を使う。
早苗が退院した後に、つきっきりでいたいが為に、急いで包丁を使ったところ、血が出た事があった。
ほんの少しの切り傷で、稔はなんとも思わずに傷の処置をして早苗に出来上がった食事をお膳で運んだ。
その稔の手を見て、具合を悪くしたのは早苗だった。
もう包丁は持たなくていいと、まだ起き上がってはいけない体を動かして炊事をしようとした。それを止める為に稔は必死になって早苗に「もう包丁で切らないようにする」と文字通りに泣いて頼んだ。
それ以来、稔の炊事はとてもゆっくりになった。
その遅い包丁の音を聞きながら、早苗はうとうとと、微睡みはじめた。
ふと、鼻先に野菜の甘い匂いが届いた。
早苗が目を開けると、稔がちゃぶ台に置いた鍋から、すいとんを汁椀に取り分けている。
「…もう出来たの?」
「早苗、食べられるかい?」
「…うん。」
早苗が布団から身を起こすと、稔は羽織を肩に掛けた。
「朝のご飯があったから、すいとんの中に混ぜたよ。その方が柔らかく仕上がるからね。」
早苗は汁椀を受け取り、箸で大きめに切られた野菜をひとつひとつはさんでは、口に運ぶ。
厚めのにんじんは甘く、細く切られた牛蒡はしゃくしゃくと音を立てた。
味噌の匂いが早苗の感覚を正気に戻していく。
小麦粉を練ったすいとんには、稔の言った通りにご飯粒がほんわりと柔らかく入っていた。
早苗は味噌の染みたすいとんをゆっくりと味わった。




