第百二十五話 波紋に藤の花 5
初日で張り切っていたせいか、日が暮れるのに気が付かないまま、稔は素描を重ね続けていた。
途中、曾根崎夫人が挨拶に来た。以前肖像画の注文を受けた相手で驚いたが、それだけだった。
相手も稔へ秋波を送ることもなく、ただ絵の方にだけ興味を示していた。
これなら早苗も安心だろうと、稔は思った。
その早苗がアトリエに戻って来たのが、日が暮れた後だった。
暖房も何もない住居にずっといたせいか、ひどく体が冷えている。
凍えた様子で部屋に入ってきた早苗の手を稔は絵筆を置いて、両手で包んだ。
冷たい手を温めようと、ぎゅっと手を握ると、早苗はびくりと体を揺らした。
「早苗?どうした?こんなに冷えて。火鉢も何もない所にいたのかい?」
「…ちょっと、ぼうっとしていたら、日が暮れてしまっていて。」
「こっちはもう片付けるから、一緒に帰ろう。」
稔は道具を仕舞っている間に、早苗に温かいお茶を出すようにと、手伝いの人に指示を出した。
「奥様、どうぞ。」
「ありがとう、山下さん。鍵はあなたに返せばいいのかしら。」
早苗は震える手で住居玄関の鍵を取り出した。
「早苗、その鍵はこちらで持っていていいと、先程曾根崎さんの奥さんが言っていたよ。」
稔が早苗の為に椅子を運び、そう答えると、早苗は何かに堪えるように口元を固めると、ぎこちなく頷いた。
「そう、それじゃあ、稔さん、持ってて。」
「家に帰るから、ここの机に仕舞っていこうか。」
「お願い。」
椅子に座った早苗は体を小さく丸めて、両手で湯呑みを包むように持って答えた。
まるで遭難したような心細げな様子に、稔は早苗が心配で仕方なかった。
「早苗、今日は遅くなったから、車で送ってくれるそうだよ。明日も、車で迎えに来てもらおうか?」
「いえ、明日は家で洗い物もしないと。」
「奥様、ご覧になった通り、いつでも越してこられてもいいように整えてありますから。
お住まいが近い方が楽でしょう?」
「…山下さん。そう、そうなのでしょうね。」
早苗はぬるくなったお茶をこくりこくりと飲むと、稔に「帰りましょう」と小さな声で告げた。
曾根崎の所有する車で帰宅した後、稔は早苗の世話を甲斐甲斐しく焼き始めた。
布団を敷く間に竈で湯を沸かし、盥を土間に置くと手押しポンプで水を出した。
直接、盥へは入らないので、バケツに溜めては水を運んだ。
その間に早苗は夕飯の支度をしようとしたが、稔に止められている。
盥に少し熱めの湯を用意すると、稔は早苗の着物を全て脱がして、横抱きにして運んだ。
「歩けます。」
「いいから。ほら、足。」
肩には折り畳んだ厚手の毛布を羽織らせ、湯につけた早苗の体を稔は丁寧に洗い続けた。その間もこまめに稔は竈の湯を足す。
早苗は膝を抱えて身を縮こまらせていたが、足の指先を手ぬぐいでそっと撫でる稔を見ている内に、ぽろぽろと涙を零し始めた。




