第百二十四話 波紋に藤の花 4
女は愉悦に堪えられないように、くすくすと笑い続ける。
「思った以上に、主人が気に入ってしまいましたけれど、構いませんよね?だって、藤村先生も自ら望んで、曾根崎の援助を受け入れたのですもの。」
「あなた、何をするつもりなの?」
「何も。
何もするつもりはありませんのよ。
今は。」
ふふふっと肩を震わせて女が笑うと、つばの広い帽子も揺れた。
それがひどく早苗の気に障った。
「それなら、何故、ここにいるの?」
早苗が表情を消したまま、女と対峙する。
それすらも、女ーー曾根崎夫人にとっては、面白くて仕方がないらしい。
「あら、主人がお世話している画家の先生にご挨拶をする事が、何か問題でも?」
問題は無い。
本来なら何の問題も無いことに、早苗は嫌悪感しか湧いてこなかった。
「あたしは、藤村先生に相応しい地位と名誉を与えたいの。」
口調を変えて曾根崎夫人が話し出した。それは、早苗が追い払った時に見せた思い詰めた顔ではなく、空の天気を占うように、ここではない場所を見ていた。
「藤村先生の絵は、あなただけのために描かれるべきではないの。
見たでしょう?画廊での盛況ぶりを。
あなたを描いた絵ではない方が、藤村先生の力量が発揮されるの。」
早苗は曾根崎夫人の言葉に、納得している自分を感じたが、同時にそれはとても悲しいと胸の奥が閊えた。
曾根崎夫人は更に、早苗を言葉で刺す。
「あの方の絵は、繊細で泥臭くて、もがきながら描きあげられた絵なのに、一目見るだけで、心が落ち着くの。
優しい絵なの。
その絵を独り占めになんか、させやしないわ。」
「……あなたも肖像画を描いてもらったじゃない。」
低い声で早苗が言う。
それを曾根崎夫人は鼻で笑う。
「パトロンひとりが認める程度の絵では、後世に残らないわ。
絵画は特権階級だけのものではないの。
これからはたくさんの人間が見る絵が、名画とされるの。
一人だけの為に絵を描き続けて、その先にあるのは閉じた世界よ。
あなたが、藤村先生の才能を潰しているのよ。」
早苗は黙って曾根崎夫人を見返していた。
「だから、何もするつもりはありませんのよ。あなたには。
ただ、藤村先生には、あなた以外の人や物を描いていただきたいだけですから。
一年以内に公募展へ出して、画家としての地位を築いて貰いたいだけ。それはわたくしも主人と同じ考えですの。」
稔が今取り掛かろうとしている百号の大作。それが公募展の作品となり、曾根崎夫人の言う地位と名誉への足かがりになるのだろう。
今までは描けなかった大きな作品。
曾根崎夫人はまだ見ぬ稔の作品をまるで見てきたかのように、ほうっと頬を染めて息を吐いた。
「きっと、見事な作品が出来上がるはずよ…」
さやさやと葉の擦れる音が二人の間に落ちる。
五月の晴れやかな空がどこまでも広がっている。
それに反して、早苗の心はどろどろと、どす黒い雲に覆われて、今にも雨が降りそうな気配だ。
しかし、曾根崎夫人は、今の空のような心持ちなのだろう。
朗らかに笑うと言った。
「藤村先生への思慕は、違うものだったと奥様のおかげで気が付きましたの。ありがとうございます。
それでは、藤村先生にご挨拶をしたら帰りますので。新しいおうちになるのですから、ゆっくりなさって。」
そして、一歩も動けない早苗を置いて、軽やかにワンピースの裾を翻して曾根崎夫人は立ち去っていった。




