第百二十三話 波紋に藤の花 3
早苗は、池の淵に並べられた石の手前でしゃがみこんだ。
池は今の早苗たちの家をすべて呑み込んでしまうくらいに大きく見えた。
上手の方からは絶えず水が流れ込み、くるくると小さな水車の玩具が回っている。
どこからか、水は流れ出ているのだろう。落ちた葉が水車がある方とは反対の方向に流れていく。
ここも青葉に囲まれていて、秋にはさぞかし綺麗な紅葉が見られるだろう。
風景画も描けるかもしれない。
その時、早苗は稔の隣にいるのだろうか。
急に早苗は心細くなった。
狭い家でも音で稔の気配が分かった。
黙って絵を描いていても、筆を置く音、鉛筆をあてる音、紙を捲る音、咳をする声。それら全てが聴こえていた。
それがここでは、きっと聴こえない。
アトリエにいれば、別々に居ることと同じだ。
早苗は稔が頑張っていることなのに、心から喜べない悲しさを感じていた。
お金は暮らせる程度あればいい。
そして、稔がそばにいてくれれば、それでもう充分なのだ。
それなのに、稔が絵を描けば描くほど、離れていく。
同じ家にいても、稔が遠い。
早苗は涙が滲むのを止めることが出来なかった。
稔は早苗の為にと。
それが分かっているから、心が苦しい。
早苗は悲鳴をあげることもできず、黙って池の水を眺めていた。
どれほどそうしていただろうか。
風がざあっと吹いて、梢を揺らした。
雨でも降るのだろうかと、早苗が空を見ると、視界に人影。
山下が来たのかと、視線を向けると、そこにいるのは、濃茶のつばの広い帽子をかぶった髪の長い女だった。
パーマのあてられた髪に、真っ赤な口紅。
服は薄い若草色のワンピースにつま先の隠れたアンクルストラップのサンダル。
早苗は既視感を覚えた。
この女は一度……。
「これで、藤村先生は、もっとたくさんの人に認められるわね。」
口紅を塗った唇を弧に描いて、綺麗な笑顔で早苗に話し掛ける女は。
『あんたが居なければ、先生はもっと売れるのよ!
あんたよりもあたしの方が先生にはいいのよ!
あたしに先生を寄越しなさいよ!』
去年、早苗が追い払った虫のような女。
以前は服装が派手なものばかりだったから、気付くのが遅れた。
早苗は痺れた足を気取られぬように、何気ない様子で立ち上がった。
「あなた、どうしてここに?」
早苗が問い詰めるように言うと、女は愉快そうに笑った。
「自分の夫の所有する家に来ても問題はありませんの。人が住んでいないなら、尚更。
それとも、ここに住むことに決めましたの?」
「あなた……曾根崎さんの、まさか。」
「ええ、藤村先生のお宅で大変な目に遭ってから、すぐに曾根崎と出会って結婚いたしましたの。お互いに趣味が似ているのが良かったので。
ですから、藤村先生の絵もきっと主人なら気にいるだろうと思って。」
ふふふと口元を押さえて笑う女を早苗は黙って睨みつけていた。




