第百二十二話 波紋に藤の花 2
早苗は稔について、アトリエへ一緒に向かった。
昼食は日勤の手伝いが作ると事前に聞いていたので、客に呼ばれたような気分で出掛けた。
そして、夕方になる前に、早苗はすっかり手持ち無沙汰になっていた。
日勤の手伝いの一人は家事を行い、残りの二人は画材の準備やモデルなどを兼務していた。
早苗のする事が何も無いのだ。
モデルは男女二人組で、どちらかがモデルをしていると、もう片方が近くに控えている。
長時間のモデルは過酷だ。
慣れているとはいえ、一日中出来るものでもない。だから二人いるのだと曾根崎から説明をされていたが、ここまで早苗の出る幕が無いとは思わなかった。
こんな状態で毎日通いについてきていいのだろうかと、日が暮れるにつれて早苗はだんだんと弱気になっていった。
稔は構わないと言うが、早苗の身の置き場が無いことに変わりはなかった。
アトリエ隣の家に越しても、ここまで何も出来ないのであれば同じだ。
早苗は狭い我が家が恋しくなっていた。
だが、それに反して稔は描くことに意欲を燃やしていた。
広いアトリエ。
専属のモデル。
潤沢な画材。
数日の間に全てを用意した曾根崎の心配りにも心を打たれていた。
是非とも、曾根崎の亡妻の絵を満足できる仕上げにしようと稔は強く決意を固めた。
暇を持て余した早苗を見兼ねた家事担当の山下が声を掛けた。
「奥様、良ければお住まいの方もご覧になって下さい。鍵をお渡ししますので、ご自由にお使い下さい。」
年輩の女性らしく、少しシミのある手で鍵を差し出してきた山下の顔を早苗は申し訳ない気持ちで見た。
「……そうですね。一人で大丈夫ですので。稔さんをお願いします。」
「はい。かしこまりました。」
ほっとしたように山下は柔らかく微笑むと、早苗に玄関の場所を説明し、
「庭には池もありますから。履物は室内の縁側の方にありますが、使われたらそのまま沓脱石の上に置いたままにして下さい。
ご自由にお使いいただくようにと、曾根崎から言われておりますので、どうぞ気を楽にして見て回って下さいね。」
早苗を気遣うように言った。
早苗は山下の気配りに感謝を伝えて、一人でアトリエを出た。
新緑の季節に合わせたわけでもないだろうが、アトリエから住居までの道は青葉の天井が続いていた。
時々、木漏れ日に目を眇めながら、早苗は言われた通りに玄関から鍵を開けて中へ入った。
当たり前だが、早苗たちの住んでいる家よりも広かった。
玄関ですでに六畳はあろうか。
玄関の両脇にある部屋はどちらも藺草の香りも強く、畳を張り替えたばかりで綺麗に設えてあった。
台所も竈ではない。
水道も通っていて、蛇口から水が出る。
風呂場も外に出る必要もなく、大きな五右衛門風呂が設置されている。
焚きつけの薪も充分にある。
全てにおいて綺麗で、清潔で何の不足も無かった。
早苗は思考がまとまらないままに、ふらふらと山下の言っていた庭へと彷徨い出ていた。




