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第百二十一話 波紋に藤の花 1

 早苗は流しで食器を洗ったり、(かまど)の中に溜まった灰を取り出したりと、いつも通りの家事に勤しんでいた。


 稔は奥の部屋で、曾根崎に頼まれた亡妻の絵を描く下準備をしていた。写真を何枚か借りて、似ている女優の掲載された雑誌を眺めては鉛筆を走らせている。


 水彩で簡単な上半身の絵を何枚か描き、曾根崎に見せる予定だった。その中で一番曾根崎の記憶に近い絵を(もと)にして、次の絵を作り上げていく。


 写真が正しい絵になるのではなく、曾根崎の中にある亡妻の絵を作り上げていくことが稔と曾根崎の一致した方針だった。


 ーーー絵が絵である必要性を存分に生かしてくれ。


 曾根崎がにやりと笑った顔の奥に、期待とそれに稔がどこまで応えられるのか試している気配を稔自身は感じていた。


 稔は初年兵の目を貰った感覚を覚えた後から、何か違う描き方を得たように思えた。

 描いているのは稔自身で変わりはないはずだが、その目を稔自身から切り離して別の人格の目であると切り替えると、違う景色が見える。


 ただの思い込みかもしれないが、その感覚を追って描いていると自分では思いがけない色や筆の置き方をしていることに後で気がつく。

 それは何かまやかしの描き方のように思えるが、間違いなく稔の目で見て、稔の右手で描かれている。何か自分の知らない自分を引き出しているようで、稔の手に負えるものなのか、分からない時がある。


 それでも、描ける方法が増えるのならばと、稔は筆を取っている。


 ただ、今は亡き仲間たちの為に、絵を上手く描きたかった。


 稔は過程を戦友たちに、成果を早苗に捧げる事で、生きることとしていた。

 だからこそ、絵を認められて、曾根崎の用意する新しい住居に移ることは、その成果を早苗に捧げる行為に他ならなかった。



 しかし、早苗はそうは思っていなかった。



 竈の灰を家の裏側の軒先に置く。ここに置いた灰は、久間木の畑で使われることになっている。


 腰を伸ばして、早苗が見つめる先は葉の繁ったジャガイモの畑。


 その奥には豆の葉が見える。


 今年の枝豆は、こちらで作るようだ。


 早苗は去年の夏を思い出していた。

 何も考えずに、珠代と豊子と三人で枝豆を食べていた。もうそんな日は来ない。それなのに、どうしてもここを離れる事を決められずにいた。


 豊子とは手紙でやり取りが出来る。むしろ、こちらに来た時に稲川も一緒に泊める事が出来る広い家に越した方がいい。


 だが、珠代はもう連絡が取れない。ここ以外を知らない。


 思い出をなぞる為に、ここに住み続ける事は、墓守りと同じではないだろうか。

 それでも思い出を残した場所は、ここ以外に今の早苗は持っていなかった。


 すべて変わってしまった。


 曾根崎ではないが、何も無くてもいいと思って生きてきた。


 それが欲を持ってしまった。


 早苗はジャガイモの畑にしゃがみ込み、そっと土に触った。


 指先には乾いた土の感触。


 誰かが埋まっているわけでもないのに、早苗は優しく撫でた。


 雑草が手に触れる。


 その感触に刺激されて手を引っ込めると、早苗は空を見上げて考える事を止めた。




 結局、稔は曾根崎の用意した書類に署名をした。


 しばらくは、ここから通いでアトリエを使うことにした。

 稔が描こうとしている絵が大きく、六畳一間では手狭になるからだった。


「百号の絵は、初めて描くよ。」


 新しいおもちゃを貰った子どものように喜ぶ稔を見て、早苗は切れ長の目を細めて眺めていた。


 (つばめ)が雛鳥のために、せわしなく飛び交う若葉の頃、確かに二人は幸せだった。








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[一言] >ーーー絵が絵である必要性を存分に生かしてくれ。 いいこと言う( ˘ω˘ )
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