第百二十話 新緑の水鏡に一滴 9
稔が可哀想なものを見るような目で、竹中を見ていると一台の車がゆっくりと路肩に停まった。
「ああ、迎えが来たようだ。それじゃあ、お先に失礼するよ。」
曾根崎が軽く手を挙げて、後部座席に入ろうとすると、
「やあ、お前も一緒だったか。」
「お酒を呑まれてないか、心配したんですよ。」
「ワインを少しだけだ。心配するほどでもない。」
曾根崎の妻と思われる女の声がした。
早苗は何処かで聞いたような声に思えたが、曾根崎という苗字の女は知らない。
気のせいだろうと、顔に笑みを浮かべると、稔と一緒に座席に腰を下ろす曾根崎に向けて頭を下げた。
「それじゃ、藤村先生と奥さん。詳しい話はまた後日。」
曾根崎はにこやかな声で口元の髭をほんの少し上げた。
車の扉を稔がそっと閉めると、車は夜の街へと走り去った。
銀座の夜もしばらく見ることはないだろうと早苗は思った。見慣れない街は、心細さを助長させる。
早苗は稔の手に手を絡ませると、きゅっと強く握った。
稔たちが駅に向かう途中も、竹中は冨田と「一緒に出掛けるくらいいいじゃないですか!」「学生を連れ回すな」「じゃあ、来年まで待てばいいんですか」「未成年に手を出すな」と果てのない会話を続けていた。
いつまでも終わらないやりとりに、竹中が不憫に思えてきた早苗が口を出した。
「それなら、竹中さんの妹さんと明日花さんも一緒に行けばいいのではないかしら。」
「え、それはもうデートじゃなくて…」
「いいですね!奥さん!
女学生三人に囲まれて楽しそうだな!なぁ、竹中!」
渋い顔をする竹中の肩を冨田ががっしりと組んだ。
冨田は上機嫌で「もちろん、お前が全部払えよ!」と大声で言った。
稔は手を繋いだままの早苗に、小声で竹中を擁護するように言った。
「ちょっと、竹中くんが可哀想じゃないかな?」
「妹さんと明日花さんが認めれば、二人きりにしてくれるわ。」
「…本当に?」
「女の見る目は男より厳しいのよ。竹中さんなら、大丈夫じゃないかしら?たぶん。」
稔は心当たりがあるのか、顔を引き攣らせながら竹中の方を見て、「頑張れよ…」と言った。
それから数日後、稔は曾根崎が提示した条件の書かれた書面を早苗と一緒に読んでいた。
住居とアトリエを提供すること。
手伝いとして、三名の日勤の配置をすること。
画材などの購入費は全て曾根崎が払うこと。
曾根崎の亡き妻の絵を描くこと。
月々の手当は、稔の作品を見て決めること。
「一応、最低限の手当は決まっているから、それ以上にしたければ頑張って絵を描けということらしいよ。」
早苗は稔の説明を聞きながら、疑問に思った事を尋ねた。
「ここからは通えないの?」
「通えなくはないが、引っ越してもいいんじゃないか?」
早苗は、脳裏に珠代と豊子の顔が過ったことを口には出さずに、
「もう少し考える時間はあるかしら?」
とだけ、稔に言った。
稔は「まあ、大丈夫だと思うけれど。早めに決めたいんだ。」と渋々答えた。




